白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

単車人生  連載1 

単車人生 (1) 著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)

 単車と付き合って40年になる。 昭和32年、大学を出て小学校へ勤めた。1時間ほど電車に乗る。千葉県との境である。 当時は冷暖房なしの車内である。夏は灼熱地獄である。荷物だったらあんなに詰めこまないだろうと思う。 パンクしそうな車内に、扇子や団扇が絶え絶えに揺れる。天井の扇風機は風が回ってくると余計暑い。 室内の空気が天井に近いほど熱くなるのを、あの時くらい思い知らせられたことはない。 こんな時、馬に乗って 朝の街道を疾駆したら、どんなに 涼しいかわからない。 つくづく 武士を羨ましく思いながら靴を踏んづけられていた。

 その夏休み。

 勤め先の先生が男女2人して、まだひとり育ちもできず 父の家をゴロゴロしていた私のところを訪れてきた。 昼過ぎである。2人は名ばかりの応接室へ 通された。スプリングが悲鳴を上げるソファーに座った2人は、椅子の傾斜を幸いと思ったかどうか、 この暑いのに両膝を密着させて寄り添っている。お袋の運んできたサイダーを嬉しそうに眺めている。2人とも 汗だらけである。コップを伝い落ちる 水滴と、いくら 拭いても額を流れる汗と、どっちが熱くて冷たいのかわからない。 2人はコップをハンカチで持ち上げると顔を見合わせて口をつけた。
「美味しいわね」
 顔を真っ赤に ほてらせた女の先生が、一口飲んで連れに言った。男の方は何も言わない。 一息に飲み干してから やっと頷いてため息をついた。 飲んでから2人は 荒れ果てた部屋の中を見回した。子供が10人両親と住んでいる。親父は学者で、長年勤めている大学の講義録は毎晩 徹夜で書くが、他のことは一切しない 。お袋は朝から 風呂場へ降りて 穴だらけの脱衣場に山のような洗濯物を積み、 たらい に入れて 半日 格闘している。子供たちは皆 学校へ行っている。 一番上の姉だけがようやく勤めている。 これで座敷にちり 一つ なかったら化け物屋敷である。
 2人は何も言わない。何か 褒めたいと思っているらしいが該当するものがない。 ヨレヨレのシャツ、ボロボロのパジャマ、脱ぎ捨てた靴下。 自分たちの部屋は雑魚寝で 誰が いつ起きるかわからない。 ここだけは誰も使っていないから いつでも空いている。パジャマを普段着に代えて カバンにありったけの 道具を詰めて、台所で昨日の残りの飯に味噌汁をぶっかけて流し込むと家を飛び出す。 共同の下宿屋である。 それでも 女の先生は目ざとく、隅に突っ立っている ガラス扉の棚を見つけた。
「 あら。すごいじゃない。本がいっぱいあるわ 。これみんな読んだの?」
 並んでいるのは、親父が 講義録をまとめたり、原書を 翻訳した物理学、数学の本だけである。
「私には関係ありません 。本も開いたことがありません」
 先生は口をつぐんだ。 しわくちゃのハンカチを膝に置いて、もじもじしている。男性は小柄だが、がっちり 引き締まった体である。 日焼けした こげ茶色の顔と、五分刈り 頭とを連れから借りた ハンカチで しきりに拭いている。
「お庭を見せてね」
 2人はそっと立ち上がって 竹格子をはめた窓の前に立った。戦争が激しくなるまでは 丸い 青銅の枠だったが供出で持っていかれた代わりに 釘で打ち付けてくれた竹格子はすでに風化して節から大きく割れている。
「まあ 広いお庭。雅叙園 みたい」
 とうとう褒める言葉を見つけた。 戦前は親父の趣味でシダや ツワブキが大きな石の陰に生え、苔まで植えていたが、今は窓の下まで雑草が生い茂り、運びようのない庭石や 枯かかった 松がそのまま放られている。 いくら お世辞でも雅叙園では知っている人が泣く。安達ケ原に住んだという 鬼婆 でもこの庭を見たら逃げ出すに違いない。
「 こんなところに住みたいわね」
 女の先生はどこを見ているのか、いつまでも突っ立っている連れの背を押してソファに戻ってきた。
「ねえ。 私たち お願いがあって来たの」
 女の先生が切り出した。
「事情があって引っ越したいんだけど、この近くに狭くていいから 安いアパートって空いてないかしら」
 何で、二人とも 年配 なのに今さら 新婚夫婦 じゃあるまいし、安アパートを見つけてくれというのか。しかし 2人は同じ職場の先輩である。男性は彼の所属する 体育部の主任である。年上らしい女性は給食の献立 担当の主任である。子供たちの給食では足りない新卒教員の腹の内を知ってか、 受け持っている子供の親のラーメン屋に出前を頼み、 黙って職員室の机に、わら半紙 1枚を覆っておいてくれる人である。こっちは新卒、向こうは 30、40に近い 大先輩である。尋ねる気はないが何かのロマンス らしい。他人のことにはまるで無関心だが、学生の頃、学校へも行かず、映画ばかり見ていたから、そういうことには多少興味がある。
「 では 探してみましょう」
 知り合いに頼んで 2階建てアパートの一室を借りることにした。1日中 陽の当たらない写りの悪いテレビのような四畳半である。タクシーから降りて 部屋へ入ると長い間 窓を締め切りにしておいたのか、カビ臭い 上に西日に照らされて蒸し風呂である。
「 こんなところに住めますかね」 
 さすがに尋ねると、
「私たちに似合ってるわ」
 女の先生は メガネを光らせながら ニコリと連れを向いた。連れの体育主任は職場では颯爽としている。体育館にマットを敷き 鉄棒を組み立てて、女の人なら タンクトップ という例のシャツを逆三角形の体にぴったり着て、裾に輪のついたスリムな体操ズボンを履く 。短い 足が長く見える。その恰好で 大車輪から 宙返りまでやる。水泳 ボール運動、何でも抜群で学校中の子供たちの憧れの的である。ところが、今は開襟 シャツのポケットからメガネを出し寂しそうにかけて、ナメクジにふさわしい室内を見回している。黄昏のほのぐらいアパートの一室に2人が立つと、マシュマロとハンバークが並んでいるようである 。
「今日から 住むんですか」
 口をきいた手前尋ねると、
「そうよ。 だから借りたのよ 」
 男性の方はメガネを外したりズボンのポケットに手を突っ込んだり落ち着かない。
「 じゃあ。蒲団は」
 皆まで言わせず 給食女子は右手を上げた。
「それなのよ。家財道具がまだ届かないのね。もしお宅に余っている毛布 や 夏掛けがあったら貸してくださらない 。2、3日のうちに返すから、ね。 お願い」
 1ヶ月学期にずいぶん ラーメンの借りがある 。何しろ大人数だから全部の座敷の押し入れをかき回せば、とうの昔に使わなくなった夏掛けぐらいあるかもしれない。2人は よほど今日寝るところが気になったと見えて、金もなさそうなのにタクシーを飛ばしてきたが こっちにはない。 タクシーに乗るくらいなら何杯かのラーメンを食べた方がいい。2人を向こうへ 待たせ 電車を2駅 乗って家に帰ってきた。 お袋に話をすると、
「かわいそうだね。どんなわけがあるのか知らないけれど、これから先、大変だろうね。押し入れを探せば 蒲団皮が切れて、中身が出ているかも知れないけど、夏掛けの1枚やそこら どっかにあるよ」
 ちょっと押し入れをひっかけ回したと思ったら、たちまち 1枚の夏掛けを引っ張り出してきた。綿がはみ出ている上にカビ臭い 。
「お前たちのかけてるのだって同じだよ。 いくら何でも掛けるものがなくちゃ寝られないだろう。 持っててあげなさい」
 丸めて自転車の荷台に縛り付けた。 大汗をかいてアパートへ 着いた。2人は 畳に紙を広げて、のしいかと柿の種か何かを並べ、ビールを飲んでいる。
「 あら。 もう行ってきてくれたの。まあ、 素晴らしい夏掛けだこと。 ふわふわしてあったかそう。今日はよく眠れるわよ」
 あぐらをかいた連れにメガネの目を細くした。
「なんかだいぶ 崩れているな 」
 男性氏はカビ臭いのが気になるのか、すみへ押しやって 3本目の缶ビールを開けにかかっている。
「あんた。こんな暑いところでそんなに飲んだら、汗だらけで寝られないよ。 ねえ、この辺りにお風呂屋さんてないかしら」
 ありかを教えて帰ってきた。荷物は積んであってもなくても同じだったが、まともに受ける 西日に弱った。電車に乗るより暑い 。
当時、道を走る車の数は、今と比べものにならなかった。時々、後ろから エンジンの音がしてくるなと思うと、三輪トラックや軽自動車が、わざとではないに決まっているが、猛烈な排気ガスを思い切り 噴き付けて飛んでいく。 自転車ごと焼却炉の中を走っているようだ。 その間を縫って大型のオートバイに長髪をなびかせた乗り手が、ボロボロのGパンをタンクにまたいで風を切っていく 。シャツのボタンを外して、はだけたままである。
 みるみる遠ざかっていく黒塗りの単車を見ていると 、金斗雲ですっ飛んで行く、孫悟空を思い出す。 あれに乗れたら夢だ。 天にも登る心地とは、ああいう気持ちを言うんだろう。 いつかあれに乗って、やけどしそうな排気ガスを浴びせていく、四輪車を必ず追い抜いてやろうと心に決めた。 オートバイ病 感染の始まりである。

                                つづく