白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

『猫と剣客』 連載 2

   『猫と剣客』         著:遠藤俊夫(白桜会・会員)

 同じ、直心陰流の遣い手、井上伝兵衛の道場が、下谷車坂にあると聞いている。
(よし、明日は乗り込んで今日の鬱憤を晴らしてやろう)
やっと、いくらか気が晴れた。陽はすでに暮れて川面を深々と闇に覆っている、残された数本の光の矢がひっそりと揺れる、柳の穂先を黄金いろに散りばめている。
(おけい…)
江戸に来て日が浅い。宿をどこへ取るあてもなく虎之助は歩き続けた。
(今頃は…)
夕食の支度であろうか。我が児を抱いて虎之助を想い、この黄昏の薄い月を見ているであろうか。
(許せ)
思わず月に向かい、心中、手を合わせた。
 文化十一年、豊前中津藩士島田市郎右衛門の第六子として生まれた虎之助。十歳から小野派一刀流、堀十郎左衛門の道場に学び、十七歳で既に九州一円に相手がなかった。さらにおのれを磨こうと江戸を目指したのは天保二年十八歳の時である。途中虎之助は下関の長門屋嘉兵衛という造り酒屋に身を寄せた。
 嘉兵衛はおけいという虎之助より一つ年上の娘がいた。同業の町家に嫁したが一年あまりで亭主に死別。実家に戻っていた。まだ若く美貌である。が、虎之助は全てを剣に捧げ強豪ひしめく江戸へ出て名をあげようという志ひとつに身を託していた。女ごときに目をくれない。それを惑わしたのは年上の女の方である。
 寄食して半年ほどたったある秋の午後である。おけいは、虎之助にあてがわれた室の障子を開けた。連子の窓から洩れる斜めの陽ざしを浴びながら、漢書素読に余念のない虎之助のそばへついと寄った。
「虎之助さま」
秀でた額と鼻筋の通った横顔を見つめる。
「うむ」
振り返ってまばたきをした。素読に心が残っていて現実に戻っていない。
「いつもご書見ですのね」
日なが、竹刀を振っているか、書物の虫のように、机に張り付いている虎之助が、自分をどう思っているか、知りたい欲望がおけいにある。半年も寄居を共にした若い男に全く無視されては意地が立たない。
「うむ。よい武士となるには剣の心得ばかりではどうにもならぬ。ものを見、わかるまなこが必要だ。そのため書を読む」
素気ない。虎之助には野望がある。幼い頃から天稟(てんぴん)と言われた剣才に一生を賭け、いつか島田虎之助の名を天下に知らせようと決めている。女のことなどまるで眼中にないのは当たり前である。
「ご修行中は道ひとすじでございますのね」
悲しい色が瞳に走った。一歩、家を出れば造り酒屋の、今天女といわれ、すれちがう女たちから羨望の目を、男たちからは驚嘆の眼差しを浴びる女が、おのれの心に影を宿した相手から振り向きもされない。が、おけいにはこうと決めたらてこでも動かない、虎之助のひたむきさがかえってまたとない魅力である。
「虎之助さま」
再び書物に耽る相手におけいはひと言った。
「虎之助様は、わたしの家にも刀があることを、ご存知でいらっしゃいますか」
「ほう」
これには興味をそそられた。かねがね自負する腕に比べ、腰のものに不満を抱いていたところである。
「それは知らなんだ。差し支えなければ見せてもらえるか」
「よろしゅうございます。ご案内いたしましょう」
連れて行かれたのが、庭の片隅に建てられた土蔵の中である。
「ご覧くださいませ。この長持の中にございます」
明り取りから洩れてくる薄い光に、埃だらけのふたを開けると、手入れも受けずにいるのか、古ぼけているが見事なこしらえである。
「これは…」
息をのんだ。長寸の業物である。反り浅く、豪放な、広い、身幅である。
「もしや孫六では…」
気を鎮め、抜き放った刀身に、匂い立つような三本杉の刀紋。鋩子(ぼうし)の乱れが凄まじい燐光を暗闇に放っている。
「あっ」
息も吐かず見入っていたが、やがてほっと肩を落とした。鞘へ納め長持の蓋を閉めた。
「名刀でござるな。目の保養を致した」
差したい思いを素振りも見せず、漢書を開いた時、
「お気に召されましたの」
湿った声が密かに側から聞こえた。
「うむ・・・。実は初代、孫六兼定。埋もれたままとは惜しい」
思わず呟いた。おのれの腰のものにできたら…あらぬ想いに身震いした時、
「亡くなったお祖父様が、家士のご身分で、殿様へ多額の御用金を調達なされたとか。そのお礼と下されたものだそうでございます」
おけいが囁いた。このくらい土蔵の中に、ひとときでも長く、想う男と共にいたいという、女の思いを虎之助は知らない。
「なるほど…。いずれにせよ、勿体ないことを。あたら名刀が陽の目を見ぬまま朽ちてゆくとは」
つい本音を吐いた。長持ちを蔵って立ち上がろうとした時、
「お望みでしたら、差し上げますわ」
低い声が響いた。
「な、なにを」
初めて振り返った虎之助。瞬きをせず見つめている切れ長に、妖しく輝く瞳を見たのである。
「拙者に呉れると申して、そなたのものであるまい」
瞬きしない女の瞳に思わずたじろぐ。
「いいえ。造り酒屋に刀など何の役にも立ちませぬ。父などはここへ蔵ってあることさえ忘れております。私が父に虎之助様へと頼めば、必ず許してくれますわ」
思いつめた瞳が虎之助を捉えて離さない。
「そ、それは。もしそうであったらこんな嬉しいことはない。天にも昇る心地がする」
かぶりを振った。
「が、せっかくの好意。甘えるわけにゆかぬ。今までの拙者への厚情。身に余りある。これ以上の無心は無用のこと」
声が震えた。飛びかかって、女を抱きしめたい衝動に駆られたが、かろうじて押さえ、立ち上がった。
「出よう」
目をそらせた時、
「虎之助さま」
おけいの声がした。瞳は、氷のごとく冷たく、燃えて注がれたままである。
「そこに書物が積んでございます。ごらんくださりませ」
なるほど。虎之助の背丈ほど暗がりに積まれた書物。何気なく上に載った一冊を手に取った。
薄暗がりに怪しい光を帯びた、極彩色の絵巻が、まともに目に入ってきた。素裸のまま互いに抱き合う男女のすがた。うつろになったまなこを、上になった相手へ向けて、身を捧げきったまま、力まかせに、男の腰へ回した、白い腕が慌てて本を閉じた、虎之助の頭に焼き付いて離れない。虎之助は思わずおけいを振り返った。そこに濡れた唇を半ば開いて、両手をつきひたと見上げる瞳を見た時、残されたわずかな理性のあかりは消え、激情の嵐が全身を襲った。
 気がついた時、暖かいしなやかな体は、虎之助の下にあった。おけいは虎之助の首に回した両腕に、思い切りの想いを籠めた。
「うれしい」
むさぼるように、男の唇を吸った女の目尻から、透き通ったやわらかな涙が、こぼれ落ちた。
「いつまでも、愛してくださいませ」
ひしとすがりつく、濡れた、あたたかい頬を額へ寄せてくるおけいを、まだ、意識の醒めぬまま虎之助は、突き上げてくる愛しさに身を任せていた。

(二)

そのことがあってから、おけいは毎晩のように虎之助の部屋へ忍んだ。いちど男を知っている女との悦楽は、若い虎之助にとってはね返すすべのない魅惑であった。
 十八歳のたくましい肉体はしびれるような官能のうねりに、たちまち溺れた。半年ほど経ったある夜。
「虎之助さま」
闇の中のまだ熱気の醒めない男の首に、両腕を絡ませながらおけいがささやいた。
「うむ」
終わった後の気だるさに、ぼんやり宙へ瞳を向けている男の耳へ、唇を近づけ、
「赤児(やや)ができました」
かすかな笑いを洩らして虎之助の耳を優しく噛んだのである。
「な、なに!」
はね起きようとする男の首に回した腕に、力を籠めたおけい。
「虎之助さま。うれしい」
体の重みを預けた。頬に触れる長い睫毛の感触。滴り落ちる熱い涙。しばらく息を飲んだまま白い輪郭を眺めていた虎之助。いきなり息の根の止まるほど抱きしめた。
「おけい。夫婦になろう。俺は明日から造り酒屋の手伝いをいたすぞ。考えれば剣に生きるだけが人として生まれた全てではあるまい。そなたとこうなったのも、天の引き合わせであったかも知れぬ。よし。またおりあらばこの地にささやかな道場を開けるかも知れぬ。何事も宿世の因縁だ。この虎之助そなた一人を愛し、末永く睦まじく暮らすぞ」
身を震わせ、体をすり寄せていたおけい。 一つしゃくりあげたと思うと、いきなり逞しい太腿をつねり上げた。
「痛い、これ何をする」
「嘘つき」
「なに!嘘など誰が申すか。嘘だと思うなら胸に手を当てて聞いてみるがよい」
「嘘でございます」
「何が嘘だ」
「夫婦になろうなどと申されて、もはや、とうに夫婦ではございませぬか」
「はっはっはっ。参ったその通りであったな。今からそなたに一本取られるようでは、先が思いやられる。とにかく明日、父御どのにこれから話して、世帯を持つ算段を考えよう」
「父は既にそのことを存じております」
「な、なに!それではおぬし達は初めから共謀(ぐる)になって俺を捉える魂胆であったのか」
「虎之助さま、許して」
体を離し思わず息を飲む相手へ。
「はっはっはっ。怒りはせぬ。それほどまで欲しいのなら虎之助。男と生まれて本望に思うぞ。おけい。こちらへ来い。晴れてそなたが抱けるよう、早く祝言をあげなければならぬからな」
とびがかるように虎之助を上から抱きしめ、分厚い胸に顔を埋めた、おけいの喉からすすり泣きが洩れた。
「嬉しい。それほどに…」
しばらく身を震わせていたおけい。やがて、ふと顔を上げ、瞳を宙に据えて呟いた。
「虎之助さま。江戸へお立ちくださいませ」
「な、何を言う」
仰天した虎之助。女の顔を起こして闇の中に見据えた。
「おけい。俺にはそなたの本心がわからぬ。俺を愛しておりながら、なぜ江戸へやろうなどと言うのだ。俺がそなたのそばを離れず、生涯を共にしようと言っているのに、なぜ訳のわからないことを言う」
おけいは黙った。涙を溜めた瞳が、闇に輝いている。
「虎之助さま」
やっと言った。
「私の申し上げること。おわかりくださいませ。愛していればこそ、あなた様が江戸へ出られ、生涯を賭けられた、剣の道を極めようとお考えのこと、存じております。その全てを捨て私に盡して下さるお気持ち。死んでも忘れませぬ」
女は、息を詰めた。
「でも今、あなた様のお言葉にすがり、一生、お引き留めしましたら、必ず後に悔恨を残すことになりましょう」
おけいは、虎之助の両掌(りょうて)を握った。
「虎之助さま。私はあなた様に、日本一の剣術つかいになってほしいなどと、露ほども思いませぬ。ただ、あなた様がこうと決められた道を、お好きなように歩いてくださいませ。そうしていつの日か。私の所へ戻ってきてくださいませ。晴れて天下人になりましょうと、何一つお持ち帰りくださらずとも、私はお戻りくださることだけを、お待ち申し上げます」
投げ出した体を、激しく泣きじゃくる女を、若い虎之助は言うことばもなく、抱きしめるばかりである。
「お行きくだされませ」
落ちる涙を、拭いもせず、おけいは言った。
「このまま、踏ん切りを付けず、ややが、産まれれば、あなた様の運命(さだめ)は造り酒屋のあるじに終わるかもしれませぬ」
瞳を上げた。
「私の前の主人(ひと)もそうでございました。造り酒屋のあるじに終わるのを飽き足らず、医術を極めたいと、長崎へ出ていくことを、強く願っておりました」
ぼんやりと、
「私は拒んだのでございます。一度、家を持ったものが、それを第一に考えるのが、当然と思ったからでございます」
おけいは、瞳を投げたままである。
「夫は、それでも諦めず、長崎から書物を取り寄せ、昼夜読みふけりました。その過労が祟ったのか一年あまりで病に侵され、亡くなったのでございます」
とぎれ、とぎれに。
「私は実家(ここ)へ戻りましてから、改めて夫の望みを叶えてあげていたら、ふたりの愛がどれほど戻っていただろうとかと、思ったのでございます」
暗黒の一点に、瞳を凝らした。
「虎之助様お行きくだされませ。私はあなた様の子を産み、育てていくだけで、うれしゅうございます。そしていつの日か、あなた様がご自分の剣に納得されて、逞しく、お戻りくださることを、いつまでもお待ち申し上げております」
この言葉が、真に愛する者への、己れの心の告白だと、言うのか。虎之助は言葉もなく、ただこの相手とは永久に離れないという思いの中に、泣き伏すしなやかな体を、力の限り抱いたのである。
(あれから、三年が経った…)
両三年の暇をねがい、必ず帰るぞと、言い残してきた虎之助である。
(すでに、時は過ぎた)
わが子は、男か。女か。たくましく育っているであろうか。思いの全てを負って、暮らしているであろうおけいの、白い横顔を、西へ落ちかかる、二十日の月を眺めながら、
(許してくれ)
思わず、手を合わせていた。        つづく…