白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

『猫と剣客』 連載 4(最終回)

 遠藤先生から原稿を頂き、音声入力で時代小説を掲載しました。遠藤先生はこの小説を何と1週間で書き上げたそうです。

 

『猫と剣客』             著:遠藤俊夫(白桜会・会員)

 (四)

「ほう」
呟いた、男谷精一郎である。
「千々和京之介どのが、うちの道場へ入門を勧められたか」
実に細いがよく光るまなこを、相手へ注ぐ。瞳に過ぎ去った時を、懐かしむいろが、漂っている。
「で、今、京之介殿はいずこへおられるか」
膝を乗り出した。拳を白くなるほど握りしめている。
「そ、それを、途中で見失いました」
きのう。よろめきながら、伝兵衛の道場を出た虎之助を、影法師のように、表で待っていた千々和京之介。肩を並べて、歩き出した。強い秋の日差しが、目に沁みる。足早に、前を歩く昼下がりのやせた背中を、従いて行った虎之助。下谷、広小路を下り、右へ折れて、湯島天神の前へ出た。境内の梅が無数の針を並べたような、梢を空に伸ばしている。人通りのない裏門の下り坂を二人は何の関わりもなく連れ立って歩いている。
「なぜ、それがしを、助けたのだ」
ふと、足を停めた虎之助。京之助に声をかけた。薄い背中は、何も言わない。しばらく、瞳を無人の境内に向け、ぼんやりしていたが、ふいに、虎之助を向いた。
「おぬしが、勝つことの、虚しさを知るまで、怪我をさせたくなかったから」
虎之助は、懐に猫を入れた満面の髭と淡い瞳を見ていた。この相手は、なぜ灰色の霧に閉ざされた孤独にいるのか。あの井上伝兵衛を、羽目板へ追い詰めた、凄まじい気魄もまた、勝つための戦意でなく、ちらちらと燃える、鬼火のような、虚しさに過ぎなかったのか。伝兵衛の額を流れ落ちた油汗もまた、この相手のがらんと開いた、底知れない、あなぐらを覗いた、恐れではなかったのか。足元に広がる、深淵に転げ落ちるのを避けて、無意識に、後退しただけではなかったのか。
(これほどの腕を持ち、人生の影を歩いている男…)
彼は言葉もなく、京之助の瞳に魅入られた。秋あかねが、のびた京之介の月代を、かすめて飛んだ。そして、大きな目玉を二つ備えた頭を、なんか、考えるようにかしげた。羽根を震わせたまま、宙へ佇んだ。
「なぜ、おぬしは」
わずかに、言葉を洩らした時、京之介は、かすかに首を振った。
「虎之助殿。男谷殿の道場を借りて、修行なされよ。精一郎どのは、天下に並ぶ者のない 遣い手。また、勝つことだけを、剣の真理と考える剣客とは、世界を異にする存在でござる。互いに争い、いのちを賭け、相手に勝つ虚しさを、知り盡しておられる。虎之助どの。おぬしは若さゆえ、勝とう勝とうが、先走り、かえって、それが、隙になることを、未だ知らない。精一郎どのに接し、技を学び、戦えば、必ず勝つ技を身につけるが、よろしかろう」
京之介は宙を向いたままである。
「が、その時、初めて、勝つ虚しさを、悟られるかどうかは、知るところではない」
初めて虎之助を振り返った。
「おぬしは、きのう、精一郎どのの構えに、どこから打ち込んでも、勝てると信じた」
口元をほころばせ。
「その通りでござるよ。精一郎どのは、初めから、構えてなど、おらぬ。おのれを無に置いて、おぬしに、溶けようとしたのだ」
ほほ笑んだ。
「もし、昨日の男谷殿が、取るに足りない、剣技の持ち主と考えたなら、それは、おぬし自身の技の投影に過ぎない。これからさき、おぬしが、修行を積めば積むほど、精一郎どの構えの厳しさに、気付かれよう。技とは、そこから、始まるのでござるよ」
ふと、頭上に佇んでいる、とんぼを振り仰ぐ。つと、右指を伸ばし、人差し指と、中指とで、それをはさんだ。懐から左掌を出し、ゆっくり止まらせる。身動きせず、六本の脚で、大きな暑い手のひらをふまえ、微かに息づく秋あかね。やがて、その掌を、大空へ向けて、ぱっと放り投げた。飛び出した、尾の紅が真一文字に、碧空へ、飛び去ってゆくのを見送っていた京之介。瞳を宙に抜けたまま。
「おぬしとは、再び会うことになろう。その時は、それがしごとき、落ちぶれに助けられたを、恥と思う人物に、なられておられるが、よい」
ふと、天神の向かいに、黄ばんだ土壌を見つめた。
「百足が、這っている」
呆気に取られた虎之助の、視線の先に、長い築地塀を緩やかに這い上がってゆく、一匹の百足。強い日差しが、その輪になって、残る大空と、ようやく黄ばみ始めた黄昏の中に、虎之助は、ぼんやり見つめた。
(あれだけ、多くの脚を持ち、なお、ひっそりと、影のように歩く…)
次第に、その姿が、千々和京之介の、細い体に見えてきた、虎之助。振り返った。風が、涼しく、吹いてゆく。足元を、一枚の銀杏の葉が、ゆっくり転げる。千々和京之介は、幻のように消えている。


「なるほど。京之介らしゅうござるな」
聞き終えた、男谷精一郎。ひとつため息。
「おぬしだけ伝えよう。千々和どのは、直心影流、無双の遣い手であった。わが師。団野真帆斎先生から、初めて奥伝を、許されたのでござる」
宙を、仰いだ。
「あの、ご仁は、剣の極意を相討ちに、求められ。剣を持って争う時、成敗は、天の知るとこのみ。死生は、すなわち一如。おのれのみ、生き残り、相手を斃そうとするは、剣の求めるところではない。かれ、傷つけば、すなわち、われも傷つく。この心あってこそ、初めて、剣を離れ、世を離れ、おのれを超える」
まなこを、閉じた。
「その心あればこそ、京之介どのは、竹刀での立合いさえ、防具をつけることを主張された。立ち合って、無心の境地に至れば、すなわち一撃は必勝となる。これを防ぐための防具は、欠かせない」
精一郎は、道場の壁にずらりと並べられた、無数の、面、籠手、胴着を見渡した。
「ゆえに、あの方は、考えられる限りの防具を、造らせ、自分にも、立ち合う相手にも、それを着けて、立ち合われた」
まなこを、ひらく。
「京之介どのには、秋葉三郎助という、無二の友がおられた」
息を、飲んで、
「無口の上、滅多に人と付き合うことをしない京之介どのは、それゆえ、いったん気を許しあった相手には、全てを許し合うあたちであった」
ちらと、まなこを、虎之助に振り向ける。
「京之介どのには、登和どのという妹が、おられた。そうして、三郎助どのとは、相思の仲にござった」
ふと、眉をひそめる。
「まもなく、祝言となる頃、団野道場の、直心影一門が、松平内記殿の邸で、御前試合を行うことになり申した。組み合わせは、抽選となり、偶然、京之介殿の相手が三郎殿に、決まったのでござる」
目を、つぶった。
「当日。たすきを掛け、袴の股立ちをとって、支度する三郎殿へ、京之介殿が、ゆっくり、近寄られ申した。そして、申されたのでござる。
『三郎助。これを着けろ。俺も着る』
振り返った三郎殿は、差し出された、新しい防具を見つめられた。やがて、首を振られた。
『厭だ』
この言葉に、持ってきた防具を、そこへ置かれた京之介殿は、相手の肩へ、手を掛けて申された。
『三郎助。俺は万が一だけを案じているのだ。勝負は問題でない。おぬしは、俺の妹を幸せにしてくれる、たった、ひとりではないか』
精一郎は、珍しく、運命を呪うような、眉間の皺を、寄せた。
「京之介どのは、なお、言われた。
『三郎助。面、籠手をつけたくらいで、周りがとやかく言おうと、俺は聞かない。それより、万が一にも、おぬしを失うようなことに、なりたくないのだ。身の安全を、第一に考えればこそ、精いっぱいの立ち合いが、できるではないか』三郎助どのは、身じろぎしないまま、聞いておられた。そうして、にこりと、笑みをこぼし、京之介どのの両掌を、握りしめたのでござる」
再び、ため息。
「身じろぎされず、聞いておられた、三郎助どの。微笑されたのでござるよ。
『おぬしを、友に持って、つくづく、幸せだ。生涯、忘れぬ。が、こればかりは、おぬしの、頼みを、聞くわけにはいかない。もし面、籠手着けて立ち合えば、見る者、ことごとく仲よし同志の慣れ合いの棒振りとしか、思うまい。いや、周りがどう思うと、問題でない。剣に生きる者。剣と、生死を、共にするが当然。相手が、たとえ、おぬしだろうと、結果は、勝負に過ぎない。おぬしの思いやりかたじけない。が、京之介。それは、俺自身を、甘やかすことでしかないのだ。それでは、進歩も、境地も、ない。分かってくれ』」
精一郎。無表情になった。
「京之介どのは、黙られた。お二人は、いまや、直心影流の精髄を、どちらかが、決めるべく、戦わなければ、ならないのでござる」
腕組みを、正座の膝へ、置く。
「お二人は、向かい合った天幕の床几に、身を委ねておられた。やがて、審判の声が上がり、お二人は、白足袋に、玉砂利を踏みながら、間、六尺に、対した」
声を振り絞った精一郎。
「三郎助が、『参るぞ』と申された時、京之介どのは、身震いされた。当然であったろう。三郎助どのの気魄は、それがしにも、伝わってきた」
その時、真昼の太陽は、正面から、京之介に降り注いだ。三郎助は、黒い、影にしか、見えない。
(へだたりが、つかめない)
京之介は焦った。陽差しを、横から、浴びるようになれば、相手を、捉えられる。今しばらく待てば、その時がやってくる。その時、自分の竹刀が、胴へ走れば、三郎助は、得意の面打ちを、頭上へ落としてくるだろう。
(それで、良いのだ)
試合は、何事もなく終わろう。相打ちに終わろうが、どちらかが、一瞬早く捉えようが、蚊に喰われたほどもない。
(回らねば)
爪さきに力を込め、じりっと左へ回ろうとした時である。三郎助の体は宙を飛んで、陽をさえぎりながら、頭上へ、落ちてきた。
日頃の鍛錬の本能か。思わず伸ばした、両腕の、竹刀の先へ、のめり込むような衝撃を感じた京之介は、次の瞬間、すさまじい一撃を、籠手に受けて、竹刀を、落とした。
「相打ち」
声が、遠くから、聞こえた。彼は、しびれた両腕を垂れて、そこへ立った。相手は右掌に竹刀をにぎり、石のように、突っ立っている。その時、逆光を受けた三郎助から、白い歯が、こぼれ落ちた。
「さすが、京之介」
呟いた三郎助は、ゆっくり、玉砂利へ、崩れていった。すきとおる小石に、ひとすじの血が、虹いろの輝きを放って、流れた。せつなに突き出された、京之介の竹刀の先は、三郎助の喉元を下から突き上げ、血管を、断ったのである。
「その夜。登和どのは、自室にひとり、自害なされた。京之介どのは、それより、姿を消された。以来、五年。消息が、絶えたのでござる」

 瞳が、かげった。曽て心の内を、鵜の毛に突いたほども、見せなかった精一郎。
いま、途方に暮れて、午後の日差しの射し込む窓の外を、見ている。
「それから、当道場の試合は、ことごとく、防具を着けているのでござる」
あの時、肥えた白豚のように、鉄壁の防備をそなえた、案山子のように、虎之助の正面に立った。この相手は、何の戦意も闘志もなかった。勝つことだけが、全ての剣に、また、人生に、千々和京之介は突き抜けることを試み、なお、失敗して、望みを失おうとしない。精一郎また、その境地を察して、刻々と、近づこうとする努力を、やめない。
「なぜ、千々和どのは、それがしを、助けた」
遠い、眼差しになった。自分さえ、いちめん、灰色の空の下を、吹き荒れる冷たい風にもてあそばれながら、ようやく生きている相手が、どうして、知るはずのない、虎之助の命を助けたか。
 彼は、正面に、瞳を返した。見つめた精一郎の、茶褐色の瞳に、そのとき、限りいない熱情と、誠意とが、あふれ出た。
「虎之助どの。ご精進なされよ。千々和どのは、おぬしに、自分が手を掛けた、三郎助どのの、面影を見たのでござろう」
遠い、眼差し。
「三郎助どのは、勝つことで、自分も、また、人をも、導くことができると、信じておられた。一方。京之介どののように、相打ちに、剣の理想を求め、さい果ての、無明の世界を、目指され、永久の平和を、ゆめみられた方もおられる」
凍りついた、表情。
「井上伝兵衛どのは、京之介どのを、女々しい奴。武士の風上にも置けぬと申されたが、それがしは思わない。京之介どのは、虚しさゆえに、おのれをなげうってしまうような人物ではない。命がけの稽古に、おのれをすり減らし、これを損じて、また、損じ、もって、為すなきに至る。為すなくして、成さざるは、なしの境地を、ひたすら求めたに過ぎない」
ひといき。
「が、そこを抜け出してなお、虚しさに襲われる運命が、まとわりついていたとしか、思われない」
やっと、かすかな微笑。
「おぬしが、当道場におられる限り、いつか、京之介どのは、あらわれよう。もし貴殿が、満ち足りた、剣の境地へ、達し、深く、おもんばかる時、至れば、その時、京之介どのは、たちまち、姿を現される。それがしには、そう申し上げるほかは、ないのでござる」
虎之助は、精一郎を見つめた。この、全てに充実しきったような精一郎に、どこか漂う、一筋の悲哀。ぽっかり、口を開けた虚しさに、かえって、張り詰めた充実に満ちた京之介と、どこが、違うのか。
(おそらく、この、精一郎どのには、世に敵う相手は、もはや、おらぬであろう。たとえ、技を持って、制することができようと、その心で、彼に、かなう者は、京之介のことば通り、いないに、違いない)
それなら、当の、千々和京之介とは、一体、何だというのだ。昼下がりの秋の、果てしない海に漂う、影法師のような存在。
(あの男は、この世に、敵味方どころか、相手さえ、求めようと、しない)
虎之助は、身震いした。それが剣の最果てであろうか。人の生きる道の、最果てだろうか。
(いや。決してそうではあるまい。京之介どのは、全ての物事に、徹底していないという思いのため、なお、徹しようとする。が、彼は徹する行為に、溺れるどころか、常に醒めて耐えている。目の前に賭けるものが、現れたとき、初めて、自分を、取り戻せるのだ)
俺は、必ず取り戻してみせる。俺の腕で、いつか、彼に挑み、その才能を取り戻させる。
「精一郎どの」
虎之助の瞳が輝いた。
「それがしを、鍛えてくだされ。ひとたびは、京之介どのに、命を救われた、それがしでござる。が、思義に思い、京之介どのを、この世に戻そうとは、思わない。いつか、京之介どのが、無限の闇から、姿を表せる手伝いをしたい」
彼は、床へ両掌を突いた。
「それがしに、お教えくだされ。京之介どのが、目覚める、確かな手応えを」
精一郎の瞳は、水面のさざ波のように、細くなり、やがて、一筋の皺となって、微笑に溶けた。ふくよかな掌を、床に突いた虎之助の、手の甲へ置いた。
「虎之助どの」
生まれ変わったように、明るく、精一郎が言った。
「それは、こちらのたのみではないか」

(五)

 虎之助はひとり、精一郎の道場へ、立っている。抜き身の大刀が、蒼ざめた光を、床へ投げている。昼間。天井の梁から吊るした、幾本もの絹糸。わずかに揺れる気配に、刀の先を突き出して、一筋ずつ、真ん中から断ち切ってゆく。立ち止まったと思うと、蒼白い稲妻が、宙を飛ぶ。無限に、動き続ける背後を、格子窓から照らす、薄い月明かりが照らしている。その背中を、かすかに、糸屑が舞った。
(猫股、踊之介…)
夢にも忘れない相手である。一年前。月明りの千鳥橋を漂った相手に、もう一度、逢うために昼夜、習練してきた。今や、この道場に、肩を並べるものはいない。できる者は、精一郎、ひとりになった。
(どこにいるのだ。京之介)
宙を舞って、虎之介を助け、風と共に消えた相手に、今一度会いたい。そうして、自分が京之介に近づこうと、どれほど努力してきたかを、語りたい。
(おれが、悟れないのは、剣の心だ)
おぬしの心を知れば、あるいは、わかるかも知れない)
足元の、濯ぎ盥を見つめた。たたえられた水に、月明かりが、映っている。内弟子となって、住み込んだ虎之助が、深夜、ひとり、稽古を終えて戻る時、家人たちが、釣瓶の音に、目を醒まさないように、あらかじめ、汲んでおいた。
(無心…)
皓々と輝く、月の光の、研ぎ澄まされた冷たさを見つめた。輝く陽光と違って、全ての人の苦しみをながめ、悩みを知っている。今、何のかげりもなく、皺ひとつ立たない盥の水面。
(踊之介どのは、すでに、この心を覚えておられようか)
この時。虎之助は、月光をさえぎった、何者かの姿を見た。それが、しなやかな体をひるがえした猫と思った時、虎之助の太刀は、銀の尾を曳いて、濯ぎ盥の水面へ、落ちていった。
「見事。虎之助どの」
懐かしい声を、彼は、暗闇の入り口に聞いた。そうして、毛筋ほどの割れ目を、表に曳いて、何事もなく、輝く、盥の月に、瞳を放った。
「おけい殿が、微笑っておられよう」
その言葉に、飛び上がる思いの、彼の前を、つと、矢来の窓から飛び降りた、しなやかな影が、入り口の闇へ、溶けていった。
「これは、おけい殿の、猫でござるよ」
声は、淡々と、蒼い、しじまに、流れた。
「江戸を出て、あてもなく流れていったそれがし。何の因果か、下関で、おけい殿の住まれる、造り酒屋へ身を寄せた。おけいどのの家は、造り酒屋の、表座敷を開けて、客の泊まる宿へ作り変えていたのでござる。あるいは、貴殿の帰りを待ちわびた、おけい殿が、両親に頼み、作り変えさせたのかも、知れない」
ひっそりと京之介。
「おぬしが、江戸へ旅立った後、おけい殿は、おぬしとの一子。女子でござったが、それへ、虎女(とらめ)と名をつけ、この猫を虎之助と呼んで、昼夜を共に、暮らしておられた」
ため息が、聞こえる。
「が、それがしが、厄介になった頃、おけい殿は、すでに、労咳結核)を、病んでおられた。そして、半年足らず、世を、去られたのでござる」
愛した女の刀を握りしめて、虎之助は、月明かりを浴びた。人は、どんな星の元に生まれ、そうして、世を去っていくというのか。
「それがしが、江戸から来たことを知った、おけい殿は、くり返し、おぬしの消息を、たずねた。そうして、臨終(いまわ)の時、おぬしをくれぐれも頼むと、それがしの手を握ったまま、あえなくなり申した」
声は、何のかげりも帯びず、暗闇を伝わってゆく。
「それがしは、たとえ、おぬしに出逢おうと、黙っていようと思った。おけい殿が、告げてくれるなと、頼まれたからでござる」
踊之介は、黙った。のめり込むような静けさを、とおく、こおろぎが、鳴いている。
「しかし、それがしは、ついに、約束を捨て、おぬしに、話した。おけい殿の、心情を伝えたかったのでござるよ」
暗闇に、かすかに笑ったようである。澄んだ明るさを戻した声は、ゆっくりと言った。
「虎之助どの。また、会おう。おぬしの娘御は、母親亡き後、立派に、成長されておられるようだ。いまごろ、おけい殿の墓に、ひなげしの花を、手向けておられるかも知れぬ。秋の日に、それは、美しい眺めと、なろう。墓の周りには、白菊が、一面に咲いていたから」
立ち去る気配が、闇に残った。虎之助は、立ち盡した。自分の人生を、ひっそりと従い、尻ぬぐいした相手が、それにふさわしく、青ざめた暗闇に消えるのを、見送ったのである。
(京之介どのは、おけいを愛したのだ)
自ら、命を絶ったという、妹のように、愛したのか。生涯、たったひとりを愛した女のような瞳を持って、語りかけたのであろうか。ただ、愛する男を、一心に想いながら、短い生涯を、閉じていった、ひとりの女を、京之介は、じっと見ていたのだ。そして死んだ女の愛した猫を、懐へ入れ、女の頼みを伝えるために、さすらいのあてを、託したのだ。それを達した今、どこへ、行こうと、いうのか。
(踊之介。どこへ、行く)
 底知れない闇の漂う入口から、やがて、男谷精一郎が、悲痛をあらわに、現れた。が、虎之助は振り返らなかった。
自分の影の消えた道場へ、立ち盡して、がらんと、風に、吹かれていた。

                                                                                                                  (おわり)