白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

単車人生 連載5

       著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)

(八)

 夏休みが来た。受け持った 5年生の子たちを連れて、日光林間学校へ行った。林間学校では東照宮へ行かない。 6年生の移動教室で見学する。宿舎が近いので子供たちの遊んでるまに、宿舎のバイクを借りて東照宮へ行った。お守り札 を 3枚買った。1枚は Mに渡すのである。後の二枚は、管理人(奥方)と赤ん坊のとである。

 東京へ戻ってきて、すぐ、Mの家へ届けようとした。プール当番が重なっていかれない。やっと終わって電話した。Mのおふくろが出た。後、半年で卒業になる。たまには遠出しようと Mの隣に住んでいる従兄弟と友人二人、合計4人で、茨城の海へ泳ぎに行ったという。明日は帰って来るそうだ。二人とも旅行帰りである。Mのことだから、また、とぼけた話しをして笑わせたり、びっくりさせる気だろう。今日は久しぶり、釣りに行って来ようと、バイクに道具をのせて、多摩川へいった。上野毛と等々力との間を流れるあたりに、川の蛇行しているところがある。出水の用心のためか、杭で囲った、遊水池がある。ヘラブナが釣れる。平日だから誰もいない。魚は次から次へと釣れてくる。いつもこんなことはない。怖いくらいだ。

 昔、おやじから聞かされた。置いてけぼりの話しを思い出した。江戸時代、江戸の本所に堀があった。魚はよく釣れるが夕刻帰るとき、魚籠を持ち上げて歩き出そうとすると、堀の中からおいてけ、おいてけと、しきりに声がする。ぐずぐずしていると、足を引っ張られるので、みな魚籠を放り出して逃げたというのである。追い剥ぎは狸だったというが、狸が、下水や掘割の元締めみたいな本所あたりに住んでいたか疑わしい。
もとより、多摩川べりに住むはずがない。
 しかし風が止んで、秋に近い夕陽がいやに赤く、なんとなく不気味である。日の暮れないうちに、魚を逃がして帰ってきた。
 その夜のことである。明け方、3時半ごろに目を覚ました。8月27日だったから、おもては、まだ真っ暗である。暑いから竹の桟を並べた、広い窓を開け放し、蚊帳を釣って寝ていた。 珍しくヒヤリとした風が北の窓から入ってきた。その風が蚊帳へ突き当たると、人が蚊帳を避けるように揺れながら近づいてくる。枕元へ来ると止まった。誰か蚊帳の外の畳へ、ひっそり座っている様子である。人影は見えない。管理人が具合を悪くしたのかと、布団を見ると食用ガエルのようないびきをかいている。子供は川の字にそばに眠っている。目を開いてじっとしていると、枕元の蚊帳がふわりと揺れた。もと来た道を戻って窓から出て行った。薄暗い部屋である。怪しげな雰囲気だなと思ったが、朝方の涼しさに眠ってしまった。

(九)

 朝になった。その日、高田馬場で組合の教研集会が開かれた。会場へ行った。グループを作って話し合っていると、委員長が家から連絡の電話が来ていると言った。 電話口へ出た。 M の家からすぐ電話をかけてくれと知らせがあったという。会場から電話したが誰も出てこない。3度目にMの母親の声が聞こえた。千葉訛りの低い声である。
 今朝早く、従兄弟の運転する車に4人で帰ってくる途中、 ダンプに衝突して重症だという。会場からカバンをさげたまま M の家へ飛んだ。
 行ってみると祭壇が作られている。棺の上に花束がいっぱい積まれたままになっている。六畳ほどの座敷に、風呂敷包みやら紙袋やら、足の踏み場のないほど散らばっている。以前Mを教えた頃、頼まれてこっちは真面目に教えるつもりで、向こうの家まで行ったのに、机の下に隠れたきりで出てこなかったM の妹が、だいぶ大きくなっていた。様子を尋ねたが泣くばかりである。
 昼過ぎ、プレス工場を経営していた長兄が戻ってきた。私の来ていることを知ると飛んできて抱きついた。Mが死んじゃったと泣く。そんなはずはない。3日ほど前、日光東照宮へ宿舎から出かけて、M のお守り札を貰ってきた。今日届けようと思ってきたのに、死ぬわけがない。嘘を言って脅そうとしてもダメだと言った。長兄は座っている私の膝に抱きついて、ひとしきり泣いた。
 今朝3時半頃、茨城県、青柳街道を従兄弟の運転で走っていた。 前を走る観光バスを追い抜こうと、緩やかなカーブを対向車線へ出た途端、疾走してきたダンプカーの下へ突っ込んだ。ボンネットが吹っ飛んだ。外へ飛び出した従兄弟と2人は、相手のバンパーに当たって即死したという。連れの友人は全身打撲で重態だそうだ。
 横にちょこんと座っていた親戚らしいおばさんが、やっぱり従兄弟同士で連れてったんだよねと、小さい声で言った。糸こんにゃくじゃあるまいし、よくもつるんで連れていったなと思ったが、どう考えても事実とは思えない。今にも祭壇の影からバアと顔をのぞかせて、先生少しは驚いたろう。ずっと来てくれなかったから、今日ぐらい、たまげさせてやろうと思っていたんだと、例の笑い声を見せるだろうくらいにしか思っていない。夕方まで何も食べず座っていた。そのうち、多勢の人が集まってきた。誰かが線香をくべた。煙が薄い初秋の黄昏を上っていく。映画を見ているようだ。お通夜を泊まってくれと言われた。
 冗談じゃない。M がもう帰ってこないのなら私を返してくださいと立ち上がった。 長兄は歯を食いしばって声を上げて泣いた。
 翌日。告別式へ行った。棺の窓を開けて、最後の別れを言う時が来た。
「先生見てやってくださいよ。あんなに仲が良かったんだから、きっと、喜びますよ。 一番喜ぶかもしれない」
 M のおふくろが、泣き疲れた声で言った。
「いや。見たくありません」
私は言った。見て本人だったら事実ということになる。事実でないと信じる者が見る必要はない。
「俺、泣いたり、恨んだりするのって嫌いなんだ」
 M の言葉が蘇ってきた。 火葬場へ行った。骨を拾った。 帰ってきてお坊さんがお経をあげるのを聞いた。突然、昨日の明け方、北側の窓から入ってきて、スルスルと蚊帳を伝い枕元に小じんまりと座り込んだ、幻のような風を思い出した。 あれが M との最後の別れだったのかと思った時、ようやく M はもうこの世にいないのだと分かった。  供養のお経を半分聞いた。思い出すのは二度と厭である。 ここへは来たくないと、長兄に行って帰ってきた。それから何度も、卒塔婆を立てに行ったけれども。 家へ M が来た時、 聞かせたレコードを蔵った。 東照宮のお守りを、免許証の奥深く隠した。 M はいなくなって、お守りだけが残った。

(十)

 9月になり、10月になった。 安保反対のデモで、連日、国会議事堂の周りへ行かされた。すごい人出と熱気である。 日本愛国党と、白ペンキで書かれたトラックの上から、マイクで叫んでいた白髪の人物に、旗竿で叩かれた。国会の審議が終わるまで、デモ隊は 議事堂の周りから離れるなと言われた。今夜は徹夜である。みんな張り切っている。 夕食を食べず、直接学校から集まってきた連中である。 夕方、7時を過ぎた。腹が減って動けないと言い出すものが現れた。なんとかしなければならない。 幸いカブに乗ってきている。
 書記長から金を貰った。 カブを引っ張って、議事堂からお堀端へ出る通路まで下りてきた。 そこから先は、機動隊の山である。白いヘルメットと腰に巻いたベルトが、ナチスの映画のように見える。バイクのハンドルを握ったまま、
「帰りたいから通してください」
白い杖を地に立てて握った、隊長らしいのがしばらく眺めた。
「帰るそうだ。通してやれ」
隊員が道を開けてくれた。 急いでカブに乗り、車の混み合う壕端通りへ出た。相変わらずの車の行列と、議事堂を取り巻くデモ隊。一体、日本はどうなっているんだろう。通りを食料を売っていそうな店を探した。 幸い、裏通りに入ったところにパン屋があった。 バイクを引いてよろよろ 入って行った。

「お願いがあります。 実は デモ で昼から 議事堂を取り巻いているのです。 お腹が減って死にそうです。お腹に赤ちゃんのいる先生がいます。 お店にあるだけのパンをこのカブに積めるだけ下さい。 パン箱は必ず返しに行きます」
  勤め先の住所を書いた。 平たいパン 箱に、アンパン、メロンパン、クリームパン、 ぶどうパン ありったけ菓子パンを詰めた。4 箱積んでゴム 縄で縛った。 その頃はバイクにヘルメットかぶらなくていい時代である。 パン屋 から 白い帽子を借りてかぶった。 お金を払ってさっきの機動隊のところへ走った。 帽子をかぶったまま、
「 そこのパン屋に勤めている店員です。 議事堂の周りに パンを運ぶよう 電話があって主人が 届けてこいと言いました。どうか、 お願いします」
 そばにいた隊員が言下に、
「いかん、いかん。デモ隊のやつらは自分で勝手に腹を減らしているんだ。 法律を守らないような者に情けは無用だ。 帰りなさい」
 ここで引き下がってはパンが全部無駄になる。 Mよ。 何とかしてくれ。
「実はつい最近上京してそこのお店へ勤めました。 やっと仕事に慣れて配達を頼まれるようになりました。 持って帰ると言ってもこれを店で売るわけに行きません。それに仕事をしくじったらやめるように言われています。このまま 郷里へ帰るわけにも行きません。 何とかお願いできませんでしょうか」
相手が一足出ようとしたところへ さっきの白い杖をついた 隊長がやってきた。
「 なに、パンを持ってきた?新米か。 主人の言い付けで、わけがわからず持ってきたんだろう。 商売じゃ 仕方ないまる 通してやれ」
持った棒を 隊員たちに指した。開いた間を恐る恐る バイクを曳いて行った。 隊長の前を通り過ぎる時 気がつかないかと 冷や汗が出た。 服装は 白シャツに夏の綿パンである。 さっきと同じである。しかし 隊長はわざとゆっくり 運ぶにせパン屋に、
「早く行きなさい。ここは出入りで混む。 警戒を厳しくせにゃならんところだ」
  大急ぎで カブにまたがり 裏手の坂を上ったデモ隊の基地へ着いた。積まれたパン箱を見て、組合員たちが万歳 と叫んだ。近くの江東、荒川といった区の組合員たちが実に羨ましそうな顔で眺める。万斛の涙をのむという目である。 寝覚めが悪い。委員長に、「もう1回買ってきましょうか。 今度は別の入り口から入ります」
 委員長は首を振った。
「 だめだ。 入り口は1つしかない。それに 他支部の面倒 まで見る必要はない。 早く パン箱を返してきなさい。そのまま家へ帰りたまえ。 夜になったら 交通規制を施かれるひかれるから いつになったら帰れるかわからないよ」
空のパン箱を返しに行く時、また機動隊の中へ入った。珍しいのか、たくさんの 隊員たちが集まってきた。
「届けられてよかったな」
声をかける 隊員がいる。 地方から出てきて、さんざん苦労した末、機動隊員になったのだろう。 同病相憐れむか。
 新橋駅近くまで来た時、右だけに曲がれる三叉路を通った。 人だかりに殺気が満ちていた。 学生らしい年齢と服装の集団が髪を振り乱し ヘルメット姿の機動隊とにらみ合っている。 学生たちは メガホンや 両手を当て 口々に、
「政府の犬 」
「貴様らそれでも日本人か」
 叫んでいる。 石を投げる者がいる。 挑発に乗らず林のように突っ立てた、銀色の楯を青白く照明車に照らされて 一言も発しない。 機動隊の群れはロボットの集団のように不気味だった。
この対立する集団には 同郷 だったり 大学が同じだったり、中には以前、友人だった相手がいたりするのかも知れない。 なぜこんなことをするか。 話してわからなければ暴力というのは 226事件の首謀者、暴力団のチンピラと同じではないか。 大学まで出てなんと情けない奴らだ。
 鲁迅の「 非攻 」という短編は、争いを否定する墨子の話である。 ある日彼のところへ孟子の弟子 公孫高がやってくる。
「先生は 不戦を主張 なさるのですか」
「 いかにも 」
「犬や豚でも戦います まして人間は」
言いかけるのに、
「やれやれ。お前たちは口では 堯舜を称えながら行いは犬や豚を見習うのか」
冷やかに言い放つところがある。 人間、何千年経っても変わらない。
 翌日 学校で子供達に言った。
「君たちはよく喧嘩をするな。喧嘩は仲がいいからする。したかったら、一対一で、気のすむまでやれ。俺がレフリーをやってやる。ただ怪我させるまでやるなよ。 そして、たとえ どんな子でも嫌ったり、憎んだり 仲間はずれにするんじゃない。人間 ひとりぼっちくらい辛いことはないんだ。自分がそういう目にあった時のことを考えてくれ」
  子供たちは しばらく 首をかしげた。やがて、はあい と言った。 彼らはすぐ忘れる。 だが 一度事件が起きると、時に思い出す。 いつまでその気持ちを持ち続けられるか。 憎む、は、愛するがゆえにして、冷ややかなるは、愛なきなればなり。
 M がそばにいたら 先生、 人間て、よく喧嘩する暇があるね、と笑ったに違いない。

(つづく)