白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

単車人生 連載3

(四)
      著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)
 16歳になった途端、たった1回の実地試験で自動2輪の免許を取ったM は、相変わらず墨を塗ったような暗闇を荷台に釣具を背負った私を乗せて、水戸街道を疾駆するようになった。早朝からの水元公園の釣りの帰り、私の勤める学校まで飛ばし、降ろすと通っている葛飾の高校へ戻るのである。M の単車はホンダのドリーム250cc だった。片マフラーで、当時最大級の車体を持ったこの車は、独特のエンジン音と、素晴らしい馬力とで若者たちの憧れの的だった。Mはこの単車をよほど気に入ったらしかった。17歳になって車の免許を持ったが滅多に乗らなかった。どこへ行くにも私を後部座席へ乗せて、街中と言わず、釣り場近くの草原と言わず飛び回った。家庭教師に雇われていた頃、宿題一つしなかったMが高校へ入った途端、鮫津の試験場で、法令、実地に一発合格。あっという間に車の免許を取ってきた。いい歳をして毎日、後部座席に乗せられているのは情けない。せめて50ccの免許を取ろうと出かけて行った。当時、この免許は、講習さえ受ければもらえた。 講習を受けに来た大勢の女性の視線を浴びながら、教官の話を聞いた。彼女たちの顔に見とれて何も覚えなかった。

 やっと免許を貰えたのが嬉しくて、友人に紹介されたNモーターという 修理工場へ行った。薄暗いオイルの匂いの漂う工場の中に、50cc のホンダカブと、ガソリンタンクをつけた黒塗りの中古車とが並んでいた。値段を聞くとあまり違わない。誰だって尻の下にガソリンタンクをつけた風防付きのバイクより、社名の光るタンクにクラッチレバーの光る黒塗りバイクを欲しいに決まっている。こっちを売ってくれとタンク付きを指した。当時、バイク屋から腕一本で修理工場を経営するまでになった主人は老眼鏡を光らせながら、バイク歴を聞いた。すでに70歳近かったこの主人は2、3日前、講習を受けてきたばかりだと聞くと、頑としてタンク付きを乗らなかった。カブに乗れという。どうしてタンク付きに乗ってはいけないのか、恐る恐る尋ねた。主人はさっさと油布でカブの埃を払いながら、こんなクラッチ付きで80㎞/hも出る単車に乗ったら、たちまち事故を起こす。こういう単車はまずカブに乗って1年も修業してから乗るものだという。 「私の取った免許ではこの単車に乗れませんか」
「いや、乗れますよ。ただ、腕が乗れないと言っているだけだよ」
「それなら、よく練習して事故を起こさないよう、上手になったら走ります。それでもだめですか」
「だめだめ、どこで練習するの」
「学校の校庭とか。住んでいるアパートの近くに、空き地がたくさんあります」
主人は情けないと言う顔で、カブのエンジンオイルを取り替え始めた。
「公共の場所、他人の土地で車の練習はできない。あんた、教わってこなかったの」
初耳である。講習で言われたに違いない。耳が節穴だったのだ。
「当分、これに乗りなさい。壊れるころになったらクラッチ付きにのせるよ」
とうとうカブに乗せられた。客の希望、注文を一切聞かず、乗りたくない車を押し付ける修理工場がある。あんなところへ二度と行くものかと、帰って管理人(女房)に訴えた。管理人は真面目に、
「それは、あなたの上手下手ではなく、乗り方の見当をつけたからでしょう。今時、そんな親切の人はいないわよ。今度から買う時には、必ずその修理屋さんにしなさいよ」
亭主の方を持たず、客の要求を無視した単車屋を褒める。にくたらしい教員だと思ったが、 とにかく、昨日まで汗みずくで自転車をこいでいた者が、今日から颯爽とエンジン付きのオートバイに乗れるのである。翌朝はやく、大喜びで学校へ乗って行った。給食場脇の自転車置き場へ止めた。すると後ろから、
「あら、八百屋さん。今日は集金日じゃないわよ」
 振り返ると、長靴を履いてエプロンをかけた給食調理場のおばさんである。
「おはようございます。今日からこれに乗ることにしました。よろしくお願いいたします」
 声を聞いた相手は飛び上がった。
「あら先生だったんですかあ。いつも給食用の野菜を運んでくれる八百屋さんが配達の時以外、カブに乗ってくるもんだから。間違えちゃってごめんなさい。でもカブに乗った先生って、素敵だわ、とても先生に見えないわ」
八百屋か、肉屋の集金人に見えたに違いない。みっともないから乗ってきたことを誰にも言わなかったが、こういう噂は電波より早く伝わるらしい。2時間目の休み時間、受け持ちの子たちが続々と集まってきた。
「先生。かっこ悪いよ」
「それ、おじさんバイクって言うんだよ」
「自転車の方が、かっこいいよ」
乗ってる本人まで、どこかのおじさんみたいだと言うのである。どこかのおじさんに違いない。26歳になって、よれよれシャツ、Gパンに運動靴の通勤姿では、たとえカブに乗らなくても、どこかのおじさんである。
「でも、これは自転車みたいにこがなくてもいいんだぞ。それに、 早く走れるんだぞ」
 私は、切り札を出した。一番背の高い男の子が、
「先生。このカブは 30㎞/hしか出せないんだよ。おれの8段変速の自転車は40㎞/hで走るよ」
 私は、絶望した。モーターバイクが、サイクリング車に追い抜かれるところを想像したのである。だが、乗っているうちに、風防のついたバイクが、馬鹿にできない性能を備えているのに気づいた。第一に頑強である。セル、モーターなどというハイカラな装備はないから、バッテリーが上がりかかっても思い切りキックを蹴っ飛ばせば、エンジンがかかる。
第二に軽い。烈風の時は酔っ払ったように足元がおぼつかなくて困るが、毎日吹くわけではない。第三に操作が簡単である。エンジンをかけ右手のアクセルを回しさえすれば自然に走り出す。ブレーキは後輪のフットブレーキより前輪の方がよく効く。自転車に似ている。第四に暖かい。夏は感じないが、真冬の北風を真向かいに走る時、風防のおかげでしびれるほど脚を凍えさすことがない。最大の欠点は遅いことである。アクセルをふかっし放して平らな舗道を飛ばして、60㎞/hが限度である。へら鮒釣りへ行く途中、先導車の後をついて走る、ヘルメットをきらめかせた競輪の選手に、何度か抜かれた。もっとスピードを出せる単車に乗りたい。思いはその一点に凝縮されていった。

(五)

 1年経ったか、経たないかに、管理人(女房)が子供を産むことになった。アパートは夫婦用で、子供を育てることができない。たとえ許されたところで 1日空室へ放り込んでおけばたちまちミイラになる。親がなければ子は育つは嘘である。実家へ身を寄せることになった。生まれたら大学を退職したおやじ、ようやく10人が1桁になって、ほっと一息のおふくろ。大家族を援けて、時におふくろ代わりに家事をしてくれた、未婚の次姉とに、飼育してもらうもりである。引越し荷物をトラックに積み、カブであとつけようとした。Mは、そんな出前持ちのバイクをやめて、俺の単車の後ろへ乗れという。新小岩から世田谷の実家まで道がまるでわからない。カブでトラックの後をつけて迷子になるより、どこでも道を知っているMのリアシートが、どれだけいいかわからない。カブをトラックに積んで、ドリーム250cc の後ろへ乗った。久しぶりの長距離ドライブである。トラックの運転手は 市ヶ谷から渋谷を抜けて行くという。Mは 運送屋のくせに道を知らないなという。新小岩から両国へ走って左へ入ると新橋駅前へ出る。そこを越えて五反田の間を池上へ抜け、長原を通り、目蒲線奥沢駅へ出れば、時間も距離も半分だという。引越しトラックの運転手に、Mの書いた地図を渡し、腹の出た管理人を前部座席へ押し込んだ。Mと2人、両国から新橋、五反田、池上へと抜ける道を先導した。トラックはすぐ見えなくなった。信号が黄色に変わったところを、あっという間に走り抜ける単車を追走できるはずがない。Mと2人、単車で都心を走るのは初めてである。見回しているうち、あっという間に長原へ出た。

 ここに小池という、昔からの釣堀がある。実家へ出かければ必ず竿を担いでくるところである。ちょうど4月で洗足池の周りの桜が、池を桃色に染めていた。
「この池は釣っちゃいけないのかな」
M は、走りながら目をやった。 一面、浮いている花びらの中を漕ぎ回るボート。弁当を広げた家族連れ。赤茶けた池の水には、ヘラ鮒のいそうな気配はない。
「ダメだろうなあ。こんなにボートで揺らされちゃ、ヘラ鮒がいても、ボーッとして釣れないだろうなあ」
1時間少しで実家へ着いた。今と比べて交通量は半分である。渋滞という言葉がなかった。
「やっぱり速いだろう。 先生」
Mは、優しい目を糸のようにした。単車とトラックとが、同じ道を走れば、信号がある限り、単車が早いに決まっている。手持ち無沙汰の2人は庭に置かれた卓球台で球を打ったり、将棋を指したりした。ステレオがあったので、ラベルも見ず、適当なレコードをターンテーブルへ乗せた。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番だった。5分ほどして、Mは王手をかけながら、
「先生。これ陰気くさい音楽だな」
珍しく真面目な顔をした。エルビスプレスリー、ポールアンカ、パットブーン、ニールセダカ。ロックにカントリーソングばかり聞いていたMに、まだラフマニノフの2番は、恨みつらみを並べた、くり言にしか聞こえなかったかも知れない。
「おれ、泣いたり、恨んだりするのって、嫌いなんだ」
私は慌てて、モーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジークに代えた。
「ああ、これ、きれいだな。おれ、音楽の時間に聞いたよ」
M は嬉しそうな顔をした。高校2年生にもなって、なんと子供みたいなやつだろう。曲に合わせて歌っていた M は、レコードが終わると、もう1回かけてくれと言った。1時間過ぎた頃、やっとトラックが着いた。M は 荷卸しを手伝って、せっせと働いた。片付け終えると、じゃあ先生、また来るからレコードを聞かせてくれよ、と言った。せめて夕飯ぐらい喰っていけと言ったら泊まりたくなるから帰る。元気でいなよ。ここから平井の学校まで、カブに乗ったりしちゃだめだよ。自動2輪か、車の免許を早く取りなよと、名残惜しそうに単車に乗った。M がふり返りふり返り、奥沢駅へ行く道を曲がって見えなくなるまで私は手を振った。

 四畳半1杯のこたつやぐらに布団をかぶせて、雀卓を乗せ、待ったの連続で、麻雀をしていた暮らしが、無性に懐かしかった。M は、それから月に一度くらい、豆腐屋の息子を乗せて、相変わらずドリーム号で尋ねてきた。私たちは久しぶり、借りていた奥の座敷で、ジャラジャラ音をさせた。全身 お腹という管理人は産休ですることがない。2人の来るのを無上の楽しみにした。M は、彼女がリーチをかけると、わざと当たりパイを放って喜ばせた。10人の子供にさんざん苦労した、おやじとおふくろは、歳を取ってきて、他人の子や、客の来るのをあまり喜ばなかった。 しかしこの二人はどういうわけか、気に入られた。律儀に挨拶するところもだったろうが、2人とも高校生というのに丸坊主で、はにかみ屋で無口なところが気に入ったらしい。おやじは、自分の学生さえ滅多に家へ寄せ付けなかったが、自分から私達の部屋へ来て、M と将棋を指した。あの子たちは本当にいい子だと、人づき合いの悪いおやじや、せっかちで、財布をどこかへ置き忘れてばかりいるおふくろの言葉を聞くたび、嬉しかった。勝負事ばかり教えていても、礼儀と思いやりは育つものかと思ったからである。  (つづく)