白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

『猫と剣客』 連載 3

『猫と剣客』         著:遠藤俊夫(白桜会・会員)

 (三)

 いつしか千鳥橋の上。川面から立ち昇る霧が青白く渦を巻いている。橋の中ほどに、欄干へもたれて川を覗き込んでいる人影がある。懐へ手を入れて何やら撫でさすっている様子。不意に風が来た。川面の靄がひっそり揺れて、銀粉を撒いたような、さざ波が立った。すれ違うとして、虎之助はその時、うすい月の光の中に、一筋の啼声の流れるのを聞いた。
「や」
思わず立ち止まった。ひっそり、向かいの欄干へ、身を寄せて川面を眺めているやせた男。
「おぬし」
もった竹刀に、力を籠めながら、虎之助は声を投げた。
「先ほど男谷の道場を覗いていたな」
相手がゆっくり振り返った。武士の風貌である。五分の月代に、着たきりらしい、黒の袷をまとい、すり切れた草履に足を乗せている。腰になりに似合わない、見事なこしらえの刀を挟んでいる。沈黙のまま、虎之助を見つめる相手の懐から、燐光を放つふたつの瞳が覗いている。
「なぜ、猫を抱いている」
声が高くなった。長身である。髪に隠れた顔は見えない。が、眼光が鋭い。
「拙者は島田虎之助だ。名乗れ」
吠えた。男谷道場での熱意が残っている。相手になるなら、割り切れないうっぷんを叩きつけようと、殺気を帯びた興奮が渦巻いている。
「おぬし、唖か」
その時、髭面がちらと揺れた。微かな笑みが掠めた。
「いや。失礼をいたした。そこもとが、島田虎之助どのでござるか。初めてお目にかかる。拙者…」
ふに、ふところから巨きな掌を出した。そこに、琥珀色の瞳を光らせた、黒い生き物を乗せ、そっと撫でた。
「猫股、踊之介と、申す者にござる」
「ぬかしたな」
虎之助の巨体が宙を躍った。巨大な袋竹刀が、月光を裂いて蓬髪(ほうはつ)の頭上を襲った。手応えがあったと思った時である。虎之助は二つに折れた竹刀の先を地に垂らしたまま、目を見張って、立ちつくした。虎之助の竹刀は、欄干の横木を打ったに過ぎない。男の体は竹刀の落ちるより早く、橋桁を転げて二、三間先を歩いている。
「うぬ」
待った。なかばの竹刀を放り投げ、駆け上がろうとしたとたん、ちくりと、首筋を刺したものがある。
「う」
急所である。思わず押さえた。手のひらにまといつく感触を、月明かりに晒した虎之助。思わず身震い。濡れながら細く、漆黒に輝くのは数本の猫の毛である。虎之助の一撃をかわした時、吹いたのであろう。たんぽぽの実のような、猫の毛さえ、唾で濡らし、必殺の吐息を拭けば、たちまち鋭い武器となる。が、それより虎之助が身震いしたのは、相手が虎之助のまなこにそれを射ず、 首筋三寸に止めた、相手の手練である。
(眼であったなら、盲いている)
不用意への恐怖より、得体の知れない相手の仕業に、襲いかかる勇気さえ失せて、虎之助は、ぼんやり、蒼じろい夜気を遠ざかってゆく、影法師の後ろ姿を見送っていた。

 

「ほう。男谷殿と立ち合われて、参ったと言われるか」
見所に、大あぐらを掻いた、井上伝兵衛は、にやりとした。唇が厚い。窪んだまなこ。茶褐色の風貌は、どこか異国の面影を帯びている。
「さよう。二本、不覚を取られたが、残る一本。籠手を頂いて参った」
睨みつけた。四十を過ぎて、まもないと思われるが、歳の割に老けて見える。
(老いぼれ。今度こそ)
闘志を押し隠し、掴んだ両刀を静かに、床へ置いた。
「男谷どのとは、三本であったが、貴殿とは、どちらかが参ったをいうまで、お相手いたそう」
四半刻も渡り合えば、足がふらついてくるであろう。
(叩きのめてくれる)
とたん、伝兵衛のまなこが、きらっと光った。薄笑いを唇に浮かべた。
「引き受けた。拙者は男谷のように防具を着たりはしない。また、一切の手加減も無用。良いかな」
挑発に乗った虎之助。真っ赤になった。
「井上殿。お手前がどんな試合巧者であろうと、それがしをなぶる以上、容赦はしない」
虎之助は、相手の薄笑いに、唇を噛んだ。
「それとも、拙者が男谷殿に、あしらわれたとでも言われるか」
伝兵衛は、目を細めた。顔は、筋ひとつ、動かさない。
「立ち合えばわかること。多弁無用」
門弟に命じ、袴の股たち。たすき掛け。鉢巻を用意させる。右掌の竹刀を指先にかけ、宙を揺らせながら、立ち上がった。思ったより小柄である。
「手加減は、一切せぬよ」
うそぶく相手。
「それは、こちらのこと」
言い返して、長尺の竹刀を上段に構えた。短身への威嚇である。
(や)

相手を見た途端、目を瞠った。中段の、伝兵衛の竹刀は、ぴたりと虎之助の、みぞおちへ吸い付いている。間合い六尺。竹刀は三尺。伝兵衛の竹刀は、虎之助の急所を捉えて、恐ろしい重圧をかけてきた。
「いかん」
思わず、呟いた。飛びさがって、体勢を立て直そうとした一瞬。伝兵衛の竹刀は、無言の殺気をほとばしらせて、虚空をすべり、虎之助の脇腹をとらえた。
「うむ」
とたん息が止まった。思わず立ち往生した虎之助に隙を与えず、伝兵衛の面打ちが、火を吹くように炸裂した。
「あっ」
ふらりと、体の均衡を失った後は、滅多打ちである。気が付いた時、竹光を遠く飛ばされた虎之助。床へ四つん這いにされ、両肩を伝兵衛の竹刀へ、押さえつけられている。
「たわけ。たかが九州ごとき、片田舎に、敵なしとうぬぼれおって。男谷殿には、花の三本と称される、初めの二本を取っておいて、おわりの一本に、花を打たせる。いつもの立ち合いすら知らず、身のほど知らぬ、どしろうと。どちらか倒れるまでの勝負に満足したか。ならば手をついて謝れ。そして二度と、道場破りなどという、おこがましさを捨て、初めから出直せ。うつけ者めが」
 頭上に罵声が飛んだ。唇から血を滴らせたまま、足取りもよろよろと、床へ置いた大小へ戻っていった。いきなり、あぐらを掻くと、脇差を引き抜き、
「御免」
押し広げた脇腹へ、突き立てようとした。とたん。鮮やかな紅色が、尾を曳いて、虎之助の両手首へ飛んだ。いましも、持った脇差を弾かれ、目を見張った虎之助は、道場の床を転がってゆく、紅だんだらの、手毬を見たのである。
「何者」
伝兵衛の声が飛んだ。いつのまにか、道場の入り口に、懐手のまま、ひっそり立つ、一つの影がある。ふと顔を上げた。満面の髭から透き通る眼差しを、伝兵衛へ、向ける。
「千、千々和京之介」(ち、ちじわきょうのすけ)
伝兵衛が叫んだ。それにも増して、呆然となったのは、虎之助である。昨夜。月光の千鳥橋に、虎之助の一撃をかわし、首筋に鋭い、猫の毛を吹いて消えた男が、相変わらず、懐中に、猫を抱いている。
「猫股踊之介…」
うめいた虎之助へ、一瞬、懐かしそうに笑みを浮かべたが、深夜の芒のように、ひっそりと、
「いかにも、それがしでござる。挨拶もせず立ち入った。許されよ。実はそれがし虎之助殿にいささか用があって参った。不躾ながら、それがしにお渡しくだされまいか」
だらりと竹刀をさげ、半ば口を開けて、立ちすくんだ伝兵衛は、やがて混迷の色を消した。代わりに、侮蔑と嘲笑が浮かぶ。
「京之介。何処からさまよってきたか知らぬが、何でこの直心影道場へ立ち寄り、そこの子倅との立ち合いなどを、望むか。いずれ、どこからか、様子を伺っていたであろうが、この田舎者」
右手の竹刀で、あぐらのままの、虎之助の肩を打ち据える。
「男谷殿の手加減さえ知らず、うぬぼれおって、わが道場を尋ね、どちらか倒れるまでの勝負と、豪語したのが、このありさま」
いきなり虎之助を蹴倒した。
「いのちまで、取ろうと、いわぬ。土下座して、不覚を詫びよと言ったまでだ。それをも、否とあらば、京之介」
射るような視線。
「欲しくば、貴様の腕で、この子倅を、引き取るが、よかろうよ」
千々和京之介の口元に、薄い笑いが浮かんだ。ゆっくりと歩き、飛ばされた虎之助の竹刀を腰をかがめて拾い上げた。
「致仕方ない。参る」
右掌を突き出した。懐中に猫を抱いている。左掌が、それを支えている。
「きさま。なぶったな」
顔面に朱を注いだ、伝兵衛。一尺を跳び退がり、青眼の構え。が、その額を、やがて、一筋の油汗が、滲み出した。両眼を、みはり、動かない。金縛りにあったかの様子。伝兵衛がそこに見たものは、巨きな、二本の、猫の前脚。琥珀色の瞳。鋭く、爪を立て、その先が、伝兵衛の喉元へ向いている。伝兵衛が動けば刹那、巨大な鋭い爪は、風のように伸びて、うなじを捉えるであろう。
「うむ」
全身の気魄を込めて、構えを立て直そうとしたが、自由が利かない。目の前に、深淵がぽっかり口を開けて、飲み込もうとしている。
(落ちては、負けだ)
なにものかに。引き摺られてゆくように、後ずさり。京之介の細い背中は、やがて虎之助から、風に吹かれるように遠ざかり、とうとう、正面の板壁へ、相手を追い詰めた。細い竹刀の先が、まるで巨大な鍾木(しゅもく)のように、喉元を押さえつけている。身動きどころか、呼吸さえできない。唇の色を失い、鼻翼(こばな)を震わせた伝兵衛。真っ青になり、震えが止まらない様子。見つめていた京之介の唇から、ふと、呟きが洩れた。
「巨きな、鼠(ねずみ)…」
からりと竹刀を投げ捨てた。背を返した。立ち盡す虎之助の左掌に、太刀と抜身の脇差とを拾って鞘へ納める。
「虎之助どの。参ろう」
風のように、入り口を、出ていった。       つづく…