白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

『猫と剣客』連載1

卓球部の遠藤俊夫先生が、最近、書き下ろした時代小説を連載します。
乞うご期待下さい。

 

『猫と剣客』                                     著:遠藤俊夫(白桜会・会員)

(一)

(いま少しのところだったが・・・)
島田虎之助は、体になお残る緊張に身震いしながら、暮れていく柳原の土堤を歩いていた。神田川にあかあかと光を落として沈む夕陽は、白く乾いた土埃から所々転び出した小石の影を作っている。思い出したようにひっそり揺れる柳の枝先を鈍く光らせている、川面から吹き上がってくる風が火照った虎之助の両頬を撫でた。薪を積んだ猪牙船(ちょきぶね)が一つ漕ぎ下って行く。
「大した腕ではないわ」
虎之助が吐き捨てた。今しがた立ち合ってきた男谷精一郎のふっくらした体の鈍重に見える動きが目の前に浮かんできた。
「勝てない相手ではないぞ」
言い聞かせた。負け惜しみではない。当代随一の遣い手と噂される直心陰流、男谷精一郎を今しがた、本所、亀沢町の道場へ訪れて勝負を挑んできた。
 三本のうち二本を取られてきたのだが・・・。納得のゆく負け方ではない。

 丁重に道場へ通された虎之助は、はやる心を鎮めながら正面の見所に相対しこぶしを握りしめていた。左に三尺四寸の竹刀(しない)を引きつけている。十数年の間、諸国を周り無数の立ち合いに、一度も負けたことがない。
( どんな相手か)
居儌(きょごう)か、尊大か、一徹か、偏屈か。彼は今まで試合ってきた名なさえ覚えていない相手の顔を思い浮かべ消し去っていた。
(それにしても行儀の良いことよ)
左右に流れるように正座した門弟たちはみな膝に手を揃えている。今しがたまで稽古に励んでいたか、頬を伝う汗を拭おうともせず、向き合ったまま身動きひとつしない。
(まるで 禅僧ではないか)
苦笑いしかけた時、彼が案内された同じ道場の入り口から、あまり背の高くない小肥りの色白の男が音もなく入ってきた。男は虎之助のかたわらを通り抜けようとする時、小腰をかがめて微笑した。それが挨拶だったか、急ぎ足に正面へ向かった相手は、見所の上へ座らずすぐ前の床へぴたりと座りこちらを向いた。
「来客のためお待たせいたしました。失礼をお許しください。あなたが島田虎之助殿ですか。お噂はかねがね聞き及んでおります。てまえ当道場の主を務める男谷精一郎でござる。以後お見知りおきください」
口元をほころばせた。
(細い目だ)
瞬間。虎之助は何の変哲もない下膨れの顔に、薄い眉を描いた三日月のような眼を見つめた。どこを見ているのか分からない、柔らかさを湛えながら虎之助に注がれている。彼はこの時、漠然とした不安を感じた。
(今までこのようなまなざしの相手に出逢ったことがない)
それだけである。未知のもの、得体の知れのものへの不安はあるが、到底かなわない相手と言う警戒心や恐れではない。いや暖かい懐かしそうな眼差しを、この名うての剣客と似ても似つかない端麗な容貌に湛えられていることが、かえって彼に鬱勃とした闘志を沸き立たせたのである。
豊前中津の産。小野派一刀流。島田虎之助。一本、ご教授願いたい」
言葉を叩きつけた。精一郎の細いまなこは、一筋の皺となって艶やかな皮膚に隠れてしまった。代わりによく透る細い声が帰ってきた。
「承りました。お相手仕りましょう」
顔中に微笑をたたえながら、
「ただ一点。ご承知おきください。当場では、他流との手合わせは、三本勝負をもって決まりといたしております。何かご依存がおありですか」
歳も若いが顔はそれより幼いと言うに相応しい。童子のような落ち着きが日本一と噂されている相手への虎之助の気負いをしだいに身を刻む苛立ちへ変えていった。
「無論何本でも結構。足腰立たなくなるまで打ち据えられようと、こちらの勝手。得物もそちらへお任せいたす」
 答えるのが面倒になってきた。問答しに来たのではない。剣は腕で決めるもの。 江戸の剣術は口先で立ち会うのか。喉元まで出かかった時、
「それならば竹刀で三本お願いいたしましょう」
悠長な答えが戻ってきた。
「承知」
ぱっと片膝を立て、左脇の竹刀を掴んだ時である。
「待たれよ」
またもゆっくりした精一郎の声が聞こえてきた。立ちかけた虎之助。相も変わらず正面の床へ端座した精一郎の人形のような微笑と、薄く開いた赤い唇とを見た。
「お手前。防具をお付けなされるか」
虎之助のこめかみが青筋を立てた。
「男谷殿。お手前は拙者をなぶる気か。はばかりながらそれがし、曽て一度もどんな立ち合いにも、面籠手を着たことがない」
彼は叫んだ。
「竹刀の勝負にいちいち防具を着込んで、まこと剣の精妙へ、達せられると本気でお思いか。拙者に必要なのは相手でござる。防具など一切不要。万一。お手前が必要ならば速やかに支度されるがよかろう」
吐き捨てた。剣に生きるものが生死をかけるのは当たり前ではないか。身の安全を測りながら勝負するなど、ただの棒振りでしかない。
(武士道も地に堕ちた)
こんな奴らに敗れてたまるか。虎之助の闘志は炎となってほとばしり立った。が、精一郎はにこりと笑いをこぼした。
「されば、失礼して身支度仕る」
門弟に助けを頼み皮胴を着け、面金をかぶり、腕に白木綿の籠手を巻いて、ようやく竹刀を取り中央へ進み出た。
「三本勝負。参る」
すでに仁王立ちとなりたくましい右掌に太い竹刀を提げた虎之助に青眼の構えをとる。
「いざ」
虎之助は燃え上がった気迫を竹刀の先からほとばしらせ、上段に位を取った。肘を曲げしだいに間を詰め、構えの左側から出方を窺う。不格好な白い籠手から細い竹刀がひょろりと虎之介を向いている。そこに着ぶくれた精一郎がのっそりと突っ立っているのがまる見えである。
(何たるやつ)
まるで武装した案山子である。虎之助の胸中に相手の分厚い皮胴を叩き割って悶絶させてやろうと言う思いが勃然と湧いてきた。
(貴様らのように竹刀踊りに明け暮れる俺ではないわ)
いきなり竹刀を大上段に躍らせた。
「喰らえ」
今まで発したことのない罵声を浴びせ、真っ向から打ち砕くと見せて、体をひねりざましたたかに胴へ入ったはずである。
「や」
手応えがない。確かに竹刀は精一郎の胴を向いている。が触れてはいない。とっさに手元へ引こうとしたがそれもできない。相手の竹刀が満身の力を籠めた右肩をぴたりと押さえている。
「うぬ」
力の限りに身悶えたが押さえつけられた右肩はびくりともしない。
「い、いま、一本」
虎之助は唸った。とたん彼の体はいきなり呪縛を解かれて、たたらを踏みながら精一郎の竹刀を離れた。
(おのれ)
目の前の暗くなるような屈辱に全身が震える。が、数知れぬ立ち合いにおのれを晒してきた虎之助である。ここで怒りに我を忘れては立ち合わずして負けたに等しいことを知っている。不安と苛立ちとを抑え再び五尺の間をとって、不格好な相手の全身をにらみつけた。
(突きだ)
鎧を着込んだような相手である。動きは鈍い。相討ち元より覚悟の上。そのくびれた顎へ渾沌の一撃をめり込ませ、今度こそ仰け反らせてくれよう。
(見ておれ)
慎重に構えた。下段である。喉元めがけ一番近い距離に竹刀を突きつけた。 誘っておいて踏み込んできたとたん。体ごと突きに行くつもりである。精一郎は青眼に戻ったまま身動きをしない。面金の中の細い目が薄く笑っている。
(うぬ)
全身の闘志を凝らして相手を見つめる。柄も砕けよと握りしめた竹刀をじりじりと上向け、先端を面金の下の白い顎に定めた。その時、気合に押されたか精一郎の竹刀が僅かに揺れた。白い籠手の隙間から狙いをつけたふくよかな喉がまともに映った。
瞬間。虎之助の長身が宙を躍った。長く逞しい腕の先に狙いをつけられた三尺四寸の竹刀は雷光のように精一郎の喉へ飛んだ。が、それは目的を達しようとした寸前。不意に横から寄ってきた精一郎の竹刀にかわされて空を切った。勢い余った虎之助の宙へ伸びきった全身は、またも身動きならない重圧へ落ちた。彼の右肩はまたも精一郎の竹刀に捕らえられたのである。
「い、いま一本」
虎之助は悲痛な叫びをあげた。飽くことのなかった闘魂が今色あせた。虚しさと哀しさとに変わってゆくのを虎之助は初めて知らされたのである。
「今度、敗れればそれまで」
潔く負けを認め入門を乞うしか道はない。が彼にとってそれは耐え難い屈辱であった。
(案山子のごとき棒振り剣術に・・・)
全身を防具に覆い、安全を第一に考え、闘志さえあるのかないのか。のっそり突っ立っている相手に為す術もなく敗れ、明日から教えを乞うというのか。
(俺にはできぬ)
覚悟を決めた虎之助。曽て幾十度か、相手を床に這わしてきた竹刀を祈るように握りしめる。心中。死を覚悟をして構えようとしたその時。
(猫・・・)
張り裂けるような静けさの一体どこで猫が啼いたのか。研ぎ澄まされた緊張のただ中にぎくりとした虎之助。思わず相手から瞳をそらして確かに啼き声の聞こえたと思った方を見た。
(窓)
青竹を植えた道場の窓に、一匹の黒猫が載っている。琥珀色の瞳がじっと虎之助を見つめている。
(なぜ猫が、あんなところに・・・)
とっさに精一郎を向いた彼は、呆然と立ち尽くした。面金の中の精一郎の細い眼が今はいっぱいに開かれて、窓に注がれていたからである。
(馬鹿な、猫ごときに・・・)
が、どんなことにも心中を明かさないであろう精一郎の温和な瞳が今、驚きの色をあらわに黒猫の窓に注がれている。虎之助の存在すら忘れたようにあらぬ彼方に向けられた精一郎の視線の先を、思わず虎之助は辿った。彼はその時、窓枠に載った黒猫の向こうに、ちらと人影のかすめるのを見たのである。同時に猫は長い指と大きな手のひらとに抱き取られて、一瞬に姿を消した。
「ち、千々和・・・」
なかば開かれた精一郎の唇から、声にならない呟きが洩れるのを虎之助は聞いた。
(一体どうしたというのだ。まるで天外へ魂を飛ばしてしまったような顔をして・・・)
相手の意識が今、全くおのれに向いていないのに苛立った虎之助。
「参る」
叫ぶや、両手に握った竹刀を構えだけ、身じろぎもしない相手の頭上に猛然と振り下ろした。
「あっ」
危うく身を避けたが受けようとした精一郎の竹刀を先から滑っていった。虎之助の竹刀はしたたかに小手を打ち据えた。
「まいった」
辛うじてとびさがる。肩で息をしている。左手に竹刀を納め、苦しいのか右手で面金をむしり取った。したたり落ちる汗が内心の揺れをあらわにしている。それを笑顔で繕って丁寧に一礼し、
「いや。 良い励みになりました。 かたじけのうござった」
そのまま入って来たとと同じ所をまっしぐらに廊下へ消えてしまった。
(いったい何がどうしたのだ)

  ぼんやり道場を出てきた虎之助。雲を踏む足取りで、神田川のほとりを歩いている。(あの窓の向こうの人影・・・)
何者だったのか精一郎の動揺はただ事ではなかった。
(それにしても・・・)
今日の立ち合いは一体何だというのだ。確かに虎之助、 形の上で敗れている。が、心から屈したのではない。あの男谷精一郎が自分に勝る技量を持っているとは到底考えられない。
(今一つ、よそを当たって見ればわかることだ)     つづく…