白桜会のブログ

‟明るく楽しく元気よく”

単車人生 連載6(最終回)

         著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)

 (十一)

2、3日過ぎた。 日本の思想運動は激戦の最中である。 毎日寝るのは次の日である。支部に泊まり、同僚の家へ泊めてもらった。 委員長が、たまには帰って顔を見せてやれ。 ひょっとするともう籍を抜かれているかもしれないぞという。しばらくぶりにカブを飛ばして、亀戸の13間道路へ出た。道端に小型トラックが停まっている。通り抜けようとした途端、ウインカーを出さず後ろも見ずに飛び出してきた。バーンと遠くに音がした。 目の前がしきりに明るくなったり暗くなったりする。気がついてみると、都電のレールの上に大の字になっている。起き上がろうとすると、そばにガシャンと何か落ちてきた。 今まで走ってきたカブの残骸である。 細長かった車体が正方形に変わっている。 前輪と後輪が同居している。起き上がった。 体は何ともない。 レインコートが泥だらけである。 はたくと肩のところに穴が開いている。 下のジャケットが擦り切れて白いシャツがそこだけ真っ黒く覗いている。 肩を打って宙返りしたに違いない。逆立ちしたことはあるが、宙返りは初めてである。軽トラックの運転手が飛んできた。真っ青である。

「 だ、大丈夫ですか 」

向こうの方が重傷に見える。怯えた顔は今にも泣き出しそうである。

「 この通り 生きてるよ。だけどバイクが潰れてそこに落ちてきたよ」

 相手は人間の無事を見てよほど安心したらしい。 あとは 体にとりすがって謝るばかりである。 パトカーが来た。錦糸町駅ロータリーの交番へ行った。 免許証を見せてくれという。 相手の若い男は胸ポケットから すぐ 出した。こっちは半分 変色した上に破れたところが ジャケットに張り付いた レインコートの上から リュックサックを負っている。 どこに入れてあるかも覚えていない。 あらゆる ポケットに手を突っ込んでやっとズボンのポケットから免許証入れを引っ張り出した。 M のお古である。M は 免許証入れ に凝っていて気に入ったのがあると値段を聞かず 買い込んだ。 事故を起こす前 家を訪ねてきた時 黄色に塗った ピカピカの分厚い 免許証入れを見せた。清掃組合みたいだなと言うと黄色は 安全色だからな という。今まで大事に持って行った 茶褐色の札から 何から 皆入る 免許証入れを笑いながら手渡した。

「はい。おじさんの 免許証入れ。 俺の免許証入れ 持っててくれよ。 俺、先生の乗り方危なくてよ。 ここから江戸川まで 毎日乗ってんだろ。 俺、先生が単車とつぶれないように いつも祈ってるんだ。この免許証入れ お守り代わりだぜ」

開けてみると 小銭入れのところに5円玉と、どこかの寺か神社のかわからないほど 古ぼけた布袋に入ったお守りがしまってある。

「 お守りって1年ごとに新しく代えるんだって、兄貴に言われたけどよ。俺、先生と付き合うようになってから代えたことがないんだ。 運が逃げちゃうと厭だからな」

 それなら自分で蔵っとけよ。 俺によこしたらせっかくためた 運が逃げるかもしれないじゃないか。 M はにっこりした。

「俺と先生は同じだからな。 目の前にいなくても必ず一緒にいる気がするんだ。 どっちが持ってたって同じだけど そんなに言うんなら 品物は先生が持ってて運は半分ずつ分けようぜ」

  忙しさに取りまぎれてしばらく眺めなかった、M の免許証入れ が やっと出てきた。
 2つ折りを開くとポトリと落ちたものがある。 拾ってみると M に渡そうとしたお守りである。奉書紙に何やら わけのわからない字を書いた木札を包んだ 一番安いのである。 慌てて 免許証入れに戻そうとすると、包んであった奉書紙が、突然、縦に2つに折れた 。そっと開けてみると、中の まだ真新しい木札が真っ二つである。
 いつ割れたか知らない。昔 1週間ほど前、子供達に免許証を見せるために出した時、たまたまそっと指先に挟んで撫でた時には何の異状もなかった。 M が代わりに割れてくれたのだということは奉書紙が折れた途端にわかったことである。
 その免許証を調べようと こっちを向いた時、 相手が潤んだ目をして唇を噛んでいたので、手を出した 巡査は変な顔をした。 話し合いの末、ウインカーを出さず 後方確認をしないまま飛び出した相手が悪いということになった。 交通裁判所へ行かされるのだそうである。 あとは潰れたカブの始末でこれは警察の仕事ではない。 示談が民事訴訟か2人で相談してくれと言われた。
 スクラップになって 道端に転がっているカブのところへ戻ってきた。 相手は 元気がない。 青菜に塩どころか 塩漬けになったナメクジのようである。 交通裁判所へ行かせられると免許停止処分になる。 その間仕事ができない。やっと運送会社に勤めたばかりだが この事故がバレると 多分 首になるという。半べそを書いている。 選挙権を持っているのに なんたる 軟弱だと思ったが、潰れて息をしなくなっているカブもかわいそうだ。 なんとかケリをつけられないかと聞いた。 相手は黙って 千円出した。 これしか持ってないという。 菜っ葉服に作業ズボン 頭にカーキ色の仕事用 キャップ 足には頑丈そうなドタ靴である。ずいぶん 安い と思ったが、服装から見ると釣り合っている気もする。 M が、先生、怪我しなかったんだから、まけてやれよとそばで言っている気がする。千円札を受け取って 電車賃にして帰ってきた。
 翌日。 修理屋へ行ってきた。 その頃仕事から ほとんど 手を引いていた1代目 の主人と、こっちと同じ年生まれのあとつぎが、工場の一部を造り変えた、事務所にいた。
 昨夜電話をしたら明日必ず来るように言われた。 こっちはあの夢ばかり見ていた黒塗り タンク付きオートバイを早速買うつもりで来た。ところが2人は事務所の机に難しい顔で座って、こっちの顔を見ると 空いている椅子に座りなさい という。別に 命を落として来なかったし 悪いことをした気がなかったが、真剣な顔で詰め寄ってきた。

「 先生という人は子供以下だね。それは相手が一方的に悪いんですよ。雇い主に掛け合えば 損害賠償保険も使ってカブの損料どころか、慰謝料 だって請求しようと思えばできるんですよ。 向こうの勤め先や住所を聞いてきましたか」

 そんなものを聞いている暇はない。時は刻々 と過ぎる。 翌日はまた 朝から子供との闘争である。カブに乗れなくなった以上 通勤に着る服を探さなくてはならない。 第一、今日はカブでそっちへ帰るぞと電話をかけておいて、夜中まで 訳の分からない話に巻き込まれたのではさすがの家族だって心配するだろうし、こっちも取り引きということは生まれてこの方 したことがないから まっぴらごめんである。 まとめて 言い訳 しようと思ったが 2人はノートを出して ボールペンで何か 書き付けている。 下手に 言い訳 しようものなら、てこに使う そこに立てかけてある鉄の棒が飛んできそうだ。 うなだれて、聞いていませんでしたと言った。 二代目が 錦糸町の交番へ行けば 相手のナンバーも勤め先もわかる。 これから行ってこようかと立ち上がりそうな気配である。 老主人は小柄な深い皺を刻んだ顔に微笑みを浮かべた。

「だめだめ、その場で現場検証もしてなければ相手との連絡 さえとってないものを、今日行ったって無駄だよ。 第一 、千円 ばかり出してその場で話をつけようとしたのは先生が話に乗りやすい と見たからだ。 先生。これからはそういう時、 絶対 仏心を出さないでください。 法律というものがあるんだから それに従って両方 約束を守るというのが社会というものです。先生に説教したって仕方ない。今度またそういう時になったら必ずうちに電話してください。 こっちで双方が責任を取るように話をします。 必ずですよ。今度 知らん顔をしているようだったら、先生の欲しがっているタンク付きは売りません」

 それを売ってくれないのなら カブと一緒にスクラップになっていた方がマシである。 では 誓約書を書きますと言うと またにやりとした。

「そんなものを書くより事故を起こさないように気をつけなさい。 単車は ぶっ壊しても代えられるが命にはスペアがないんだからね」

いいことを言う。伊達に歳を取ったわけじゃない。 滅多に人なんか 尊敬したことがなかったが、この時は頭が下がった。翌日。13間道路、ガードレール脇の草むらに片付けられていたカブのスクラップを取りに行った。 あとつぎが軽トラックを運転して乗せて行ってくれた。 車を降りて 一目 車体を見た。

これはひどい。運ぶには都合がいいがよくここまで 潰してくれ た。 先生の身代わりになったんですよ。今度からもう少し自分も車も大事に乗ってください」

 スクラップを後ろの荷台に乗せて帰ってくる途中、 M は何も言わなかった。 あれだけ潰されて声が出ないだろうと思ったが、自分がお守り代わりにしていた免許証入れを人にくれて、自分はさっさと 約束の運の半分を取らず消えてしまった。 あんな人間がどうしてこの世にいたんだろう。

(十二)

 修理屋へ戻ると、老主人が手入れを終わって 待っていた。

「先生もやっと一人前になりましたね。 タンク付きを整備しておきましたよ」

 スクラップを積んできたばかりのあとつぎが、

「とんでもない。 こんな無茶な運転をする人に クラッチ付きの単車なんか乗せられませんよ 」

 ムキになった。老主人はメガネを外して私を見た。にっこりして、

「一度死にそうになった人は度胸が座って 命を大事にするもんだ」

 平然という。その老主人も この近くに 運河が多かった頃、夜道を走っていて橋の上からバイクごと落ちたそうである。

「先生の乗り方を見ていると単車にしがみついていない。 危ないと思ったら単車を放り出して逃げる勇気がある」

今まで何度転んだかわからない。カブは軽いし タンクに膝を挟んでいないから逃げやすい。ひっくり返った時 できるだけ轢かれないようなところへ 身を置かなければ命がいくつあっても足りない。

「 人間は何もないと怖いから どうしても単車にしがみつく。そこを轢かれるか 跳ね飛ばされる。 ブレーキをかけて横倒しになる時、単車を捨てて逃げれば最小限の怪我で済みますよ」

さすが 1代で修理工場を築き上げたキャリアである。

(十三)

やっとクラッチ付き単車に乗れる身分になった。 ところが いざ 乗ってみると 意外に操作が難しい。 左手にクラッチレバーを握っている。 交差点に停まる。 信号が青になる。 右手のアクセルをふかす。 猛烈なエンジン音が噴き上がる。左手のクラッチを握ったまま ニュートラルの状態で ふかしているのである。 慌てて左手を離す。 突然 車体が飛び出す。たちまち エンストする。 一度、四つ角でスピードを落とさず 左折しようとしたら尻 がシートから後ろに滑ってしまった。 腕が伸び切った。 アクセルをふかしっ放しのまま手がハンドルから離れた。 単車はひとりで飛んで行って、街路樹のプラタナスに真っ正面からぶつかった。 ハンドルがちょうど 斜め 半分を向いた。蟹が横ばいしているようだと思いながら、そのまま 例の修理屋まで走った。 20キロ近く 行って着いた。降りたら目がやぶにらみのまま しばらく 直らなかった。 老主人は、

「 このくらいで済めば大したもんですよ。先生は悪運が強い ね。スピードを出したまま 曲がろうとしたのならきっとタイヤが滑ったんでしょう。 大抵は単車もろとも その樹に体当たりして頭の1つも打つ はずですがね」

なんとなくMと一緒に乗っている感じである。 毎日乗っているうち慣れてきた。 スピードの快感がたまらない。 追い越されたことしかなかった車を時々本気で追いかけて抜いてしまうことが 度重なるようになった。ある 夕方、かつて恨みの13間道路に借りを返そうと思い切りアクセルをふかした。 途端に 後ろでサイレンが聞こえた。 たちまち 白バイがぴったり横についた。

「あんた。 そのバイク 何キロで走っていいのか 知ってるの。 今80キロ出てたよ。 このメーター見なさい」

 白バイには瞬間のスピードを測る メーターがついている。 確かに 80キロで針が止まっている。 4輪車が風のように通り過ぎていく。

「前の車の後をつけて走りました」

 言い訳である。白バイの警官は呆れた顔で覗き込んだ。

「その単車で、車の後をつけて走っていいかどうかわからないんじゃ乗らない方がいい な。 とにかく 50キロオーバー じゃどうしようもない。交通裁判所へ行ってください 」

出頭させられた。 罰金と1ヶ月の免許停止である。 罰金は1回分の飲み代 で済んだが 免停には弱った。

以前、カブを潰された時 免停を食らってベソをかいていた若者を、当たり前だろうと思っていたら、たちまち 自分に返ってきた。 因果はめぐる 小車ではない。 因果はめぐる 原付単車である。 講習を受ければ1日で返してくれるという。
 学校を半日休んで行った。事故現場を映した 全編 血だらけのフィルムを見せられた。 アクション映画のハラハラシーンと違って 奇妙にリアルである 。 オカルト 映画 の 恐怖シーンの方がはるかに楽しい。アクション映画会社がこうした残虐シーンを派手に格好よく作るわけがよくわかる。 こんな真実の場面をそのまま見せられて はたまったものではない。この映画で 道端に血だらけで転がっているのはまず 2人乗り 単車の若者たちである。当然 件数が多いのであろうが次々と映されると、今に日本の若者はいなくなってしまうんじゃないかと思う。 ようやく会場を出てきた後、車にだけは消して乗るまいと思った。 飛び出してきた 2人乗りをドカンとやったらこっちが生きていられない。 免許を返されて考えた。 やはり M に言われた通り 自動二輪の免許も取らなければいけない。東京横断に50cc を使っていたのではあといくら 罰金を取られるかわからない。 M は1回で合格した。 麻雀専門と言いながら 家庭教師を勤めた者に取れないはずはない。 いい具合に2人の娘が 保育園へ預けられるくらいに育った。ついでに習志野台の団地に当たったので引っ越した。
 教習所では その頃 ようやく単車の実地試験免許取得コースが用意され始めていた。 だが下手ながら 今まで20年近くバイクに乗ってきたのである。 毎日、東京横断を繰り返したから距離にしたら10万 km をゆうに越しているはずである。今更 練習でもあるまい。 試験 さえ受ければ一発合格だと当時 試験場のあった岩概へ バスに乗って行った。 降りると試験場の周りは飲食店と法令試験の参考書 売り場 ばかりである。 法令なんて 常識 程度に違いない。薄っぺらな参考書を買うのも 馬鹿らしいと何一つ 準備しないで 試験場へ入って行った。 配られた 用紙を見て驚いた。踏切から何 m 以上は駐停車禁止であるとか勉強してこなければ分からない問題が 50題並んでいる。 今更どうすることもできない。問題の解答の番号に適当に〇をつけて出てきた。40分ほどたつと合格者の番号を書いた模造紙が壁に何枚か貼られた。 どこを探しても 自分の番号はない。 こんなことで落ちるようでは到底 ハーレーに乗れない。 M に合わす顔がない。麻雀に明け暮れたM は堂々 1回でパスした。
 とにかく これに受からないことにはM に 堂々たる 単車 姿を見せることができない。 帰り 恨みを込めて 問題集を買った。電車の中で読み 家のトイレで 読み 飯を食いながら読んだ。 3日経つと何ページに何の問題がどんな順序で並んでいるかわかるようになった。 大学時代 将棋に凝ってりんご箱 1冊の古本を文章まで全部覚えているのに2年かかった。 それに比べると法令の問題は 前立腺肥大の小便 くらいしかしかない。なんとか自信がついたので 受けに行った。今度は番号が出ていた。
 合格したら 今までひたすら あの薄っぺらい 参考書に熱中して一切のことを考えなかった時間が惜しくなってきた。 もう二度と読むことはあるまい。

(十四)

  いよいよ 実施試験に挑戦することになった。 受験地の出発点で合格、不合格のポイントを説明された。 法令は勉強して受かったが 実地に運転となると自動二輪に乗ったことがないから実際の試験を受けないことには見当がつかない。 出発点には 125cc のバイクが置いてある。 延々と受験者が並んでいる。 みな 20歳前後の若者である。 白いシャツに黒ズボン 半分白髪頭の受験者はたった一人である。
 20人ほど 順番を待つ うちにすっかり のぼせてしまった。 夏休みである。 太陽は 遮るもののない 出発点の草地を眩しいほど 照りつけてくる。 目がくらむ。 受験コースになっている舗道から大地を揺らせてかげろうが立ち上っている。 ようやく単車に乗った。 後ろから パトカーがついてくる。 1度目は出発して半分も走らないうちにサイレンが鳴った。 踏切で一時停止しなかったのである。 踏切 なんて 家から職場へくるまでに見たことがない。 昔の映画を見ているようで 懐かしいと思っているうちに素通りした。 パトカーから怒鳴られた。 そこで単車を降りて出発点まで押して行けという。ろくに法令を守らないで ただ目的地の職場に着くことだけを生涯の念願にしているやつだ。 到底 受からないと思ったが、諦めてたらドリーム号に乗れない。 2、3日して懲りずにやってきた。 今度はうまくいった。 出発地点が見えてきた。 しめたと思ったとたん サイレンが鳴った。 出発点の前の交差点を右折しなければならないのに目の前がゴールだから 大喜びで直進してしまった。また歩かされた。 しかし ゴール寸前に右折してその向こうから カーブ した道をゴールへ向かわせる 策略は大したものである。 進路の設計にシャーロックホームズが加わっているのかもしれない。
 3度目になった。危ないところを2度失敗しているから 心配することはない。 ふところのお守りを免許証ごと 握りしめた。 どうにか出発点へたどり着いた。 合否の発表になった。自分の番が来た。パトカーの警察官があんなに前ブレーキばかり使っているとひっくり返って事故を起こすぞと言った。 だめかと目をつぶったら気をつけて乗りなさい と 合格証をくれた。 警察官の顔が M に見えた。

(十五)

  それから 何台 単車に乗ったかわからない。 大抵 1年で壊れた。 4気筒エンジンの単車は出足が遅い。 いっぺんに 4つのシリンダーを回さなければならないのだから当たり前である。 単車は交差点で発進を待つ 車の一番前にいて 信号が変わると同時に車より先に出なければ 道路の埃と廃棄ガストを一斉に浴びせられる。 仕方がないから クラッチを半分 握る。信号が変わる。半クラッチのまま アクセルを思いっきり ふかす。 単車は猛然と飛び出す。 代わりにひと月たつとクラッチガリガリに痩せてくる。 とうとう 滑って単車が動かなくなる。10台ほど乗りつぶした後 修理屋が、

「先生は壊すために 単車に乗っているようなものです。あんな乗り方をしたらどんな単車だって1年も経たないうちに役に立たなくなりますよ。 仕方がない。 もう先生に乗せる 単車はこれしかない。 これなら今までみたいに 京葉道路のど真ん中で動かなくなることはありませんよ。 乗っている人の方が先に壊れるかもしれませんがね」

  渡してくれたのが真っ黒の車体に赤い字で ウルフ と書かれた 250cc のオートバイだった。 乗ってみて驚いた。 クラッチを握って アクセルをふかす。 ギアをローに入れて5秒走ると時速60キロになっている。 はじめ 何度か 追突しそうになった。 この車は58万円だった。管理人(奥方)はオートバイが壊れようが新車を買おうが まるで関心がなかったが 58万円 と聞いた時初めて目を剥いた。 車より高いんじゃないの という。 違いない。 だが免許のないものはどうしようもない。 1年かかりのある時払いでようやく払い終わった。
 今までの単車は金を払い終わる頃 大抵 壊れた。 このウルフは頑強だった。 新品の時ガソリン1 ℓ で9キロ を走ったこの単車は、トップギアで時速60km では エンストしてしまう。 80キロで滑るように走る。 出足が素早い。 ハンドルが短くさながら 中古車展示場の趣のある はるかの渋滞の中を縦横に練って走る。 車体が重く スピードを出すほど 車全体が地べたへ 吸い付くようになる。 安かろう悪かろう 高かろう よかろう という資本主義の原則を考えさせる 車である。 はじめは用心して 八分のスピードで乗った。 だんだん慣れてきた。 渋滞で身動きできない車の左側を一気に走り抜ける。
 交差点の信号が青になる。 さらに進まない車の列の左側をすり抜けていく。 いつ 目的地へ着くのか 誰もわからないような 果てしない 車の行列を見ているとこれが全部 単車だったら道路は 広々とさぞ、ガラ空きだろうと思う。 だが単車は完全無防備である。 車に比べたら真っ裸である。 青信号と見て 相変わらず動けない車の左側を通り抜けようとする。 突然右折車が目の前を横切る。瞬間にブレーキを踏む。 単車が直立する。 おもむろに倒れる。 重量がありすぎるから逃げられない。右腕に比べ 左腕は弱い。 車は必ず左へ倒れる。 右へ倒れていたら今頃5、6回死んでいるはずである。 それでも硬い 歩道に膝をぶつける。 ズボンは穴だらけ 膝は 血だらけはやむを得ない。

 何度も倒れるうち、膝の皮が硬くなる。 血は擦り傷だけになる。 代わりに打撲で中へ 溜まった血は出てこない。膝がこぶのように腫れてくる。 普段はズボンをはいているからわからない。 だが 水泳の時パンツに代えると子供達の視線はボールのように丸くなった 膝頭に注がれる。 たんこぶじいさん という仇名をつけられる。 ぶよぶよしているが ぶつけない限り 別に痛くない。 病院は通り過ぎることを習慣にしているから中へ入らない。 だが ある日 修理屋へ行った時 対面に座った 彼は一目 ズボンの上から 腫れ上がっている 膝を見つけた。

「先生。これは中へ 血が溜まっているんですよ。このままにしといたら膝がなくなって単車に乗りませんよ」

 単車に乗れなくなってはもはやこれまでである。病院へ行った。 医者が怒鳴った。

「こんなになるまで放っておく人間を見たことがない。 自分の体を何だと思ってるんだ」
馬の注射器のようなガラス管に太い針を刺して、
「 はい ごめんなさいよ 痛いのは自分のせいなんだから 私を恨むんじゃない」

膝小僧 へ 針を刺し ガラス管 1本分くらいの黒ずんだ血を抜く。 それにしてもようやく慣れてきた。 転ぶ 回数が次第に減った。 だが困ったのは 京葉道路の路面である。 ダンプが終日 往来するから無数の溝がある。 へこんでいるところを走れば倒れない。 高みに乗った時いくら用心しても 斜面を滑り落ちる。 単車は重心を失って転がる。 人生 いつでも底辺を歩くように心がければ、危険が少ない。
 逆に高みに立てば いつ落っこちるかわからない。 金持ちや 社長が絶えず心配そうな顔をしているわけである。 花輪のインターから京葉道路へ入り時速100km 前後で走る。 突然 轟音が辺りを揺るがす。 後ろから ダンプカーが追いついてくるのである。 この時この前後のスピードで抜かれるとダンプカーの後ろに生じる陰圧部分に吸い込まれる。 後続車が来たらおしまいである。 京葉道路は東京へ向かう時 1年中 後ろから日が登る。 後方から追ってくる 大型車の影は全て 前方の路面に映る。 すかさず スピードを落としてやり過ごす。 この一瞬はさすがに 怖い。 穴があったり 小石が一つ 転がっていれば終わりである。死を担保にした かけ引きである。剣豪 宮本武蔵の勝負の心境である。
 一度 職場の同僚が20何年 京葉道路に往復料金 400円を毎日 払っているのはバカの証拠だ。 湾岸道路の無料の道を走れば ただなのにと言った。 帰り道 試しにそこを走った。 道はまっすぐ だがどこかで 左へ曲がらなくてはならない。 適当なところを曲がった。 来てみると 一度も通ったことがない。 やたら走り回っていると 三山車庫終点 という 標識に出会った。習志野台から出ている場所に確かそういう標識をつけて走っている記憶があったから、喜んで道を聞いたが誰も知らない。 みなバスに乗り降りしているんだから 途中の道筋がわかるはずがないらしい。 おまけに交番が見つからない。 そのうち 薄暗くなってきた。 明るいところだって 東か西かさえ見当がつかない。 暗くなったらおしまいだと思っていると突然、木下方面 という 標識に出会った。
M の単車に同乗して毎週のように通っていたところである。 今も ホームグランドである。あそこまで行けば帰り道がわかると思ったら急に元気が出た。 家とは反対側の方向に30分ほど走って 木下の通り へ着いた。 見慣れたパチンコ屋 ハンバーガー店の明かりを目にした時 日本は狭いようで こうして迷ってみると 広大無辺なものだと思った。 通り 慣れた街道を通って家へ 着いた。 夜9時である。 4時に職場を出て 5時間 千葉県を さまよった。 以来、二度と京葉道路以外を走ったことがない。 2年ほど乗った。 車より ガソリンを食うが、その重量と出足の速さが命だと思うと、何ものにも代えがたくなってきた。ところがその気持ちを一番逆なでするようなことが起き始めた。
 盗難である。朝 乗ろうと エンジンをキックするとかからない。 一晩でバッテリーが上がるはずがない。試しに ヘッドランプをつける。 前方が明るくならない。 前へ回る。 ヘッドランプが丸ごと消えている。 配線が引き継がれて、ごちゃごちゃ と 垂れ下がっている。その頃 愛車を蹴られて相手をナイフで刺した事件を新聞で読んだ。 人間より車を大事に思うアホがいるかと思ったが、いざ ヘッドランプに消えられてみると その心理 もわからないではない。 向こうは 遊び だろうが こっちは営業である。

 職場へは当然 今朝も単車で行かれると思っている。 ヘッドランプはともかく 1日の予定は全て壊滅である。 電車に乗りタクシーを往復させなくてはならない。まず 2時間はムダになる。朝から 修理屋に電話した。 その日のうちに来てくれた。 ところが 直したらバッテリーがなくなった。入れてもらったと思ったら 工具がなくなった。 とうとう単車ごとなくなった。修理屋が交番へ届けなさい という。 行ったら 盗難届を書かされた。
団地の駐輪場へ 鎖でつないでおいたのを切って持って行きました。 警察では夜間のそうした出来事は分かりませんか」

  思わず皮肉が出た。 巡査は気の毒 そうな顔で、どうせこの辺りの者の仕業だから ガソリンがなくなれば捨てるに違いない。そうなれば どこかに落ちてますよと、落下傘みたいなことを言う。1週間経った。 近くの団地のゴミ捨て場にあったと連絡が来た。
 まだ動いたから引っ張って 警察へ持ってきてある という。警察署の単車置き場でよれよれになった ウルフと再会した時には、案内してくれた 巡査が神様に見えた。 ガソリンがなくなるとどうして捨てるのですか と尋ねた。 ガソリンタンクに鍵がかかっている。 こじ開けて ガソリンを入れたら走るたびガソリンが飛び出す。 使い物にならないからですよと、教えてくれた。 修理屋が工場へ運んでまた 直してくれた。

「 先生。鎖だけではだめだね。タイヤにも U 字型の鍵をかけましょう」

 一番大きいのをタイヤに回してくれた。 体操用鉄棒をひん曲げたような代物である。つけたその晩、両方ともちょん切ってまた持って行った。多分今度は出てこないだろう。 敵の執念も半端ではない。諦めたからもう一度新しいのを買ってくれと頼んだががんとして聞かない。 56歳にもなって そんな単車に乗っている人は1人もいない。 珍しい単車 だから いたずらされる。 車なら中古で20万円足らずのが、うちにいくらでもある。 今からでも遅くない。 早く車の免許を取りなさい。 単車はもう買いませんよ と言う。
 ついに 単車人生の終わりが来たと思った。 夢にホンダドリーム250cc に M が乗って出てきた。 右手にハンドルを握り左手を開いたり閉じたりしながら 相変わらず細い目で ニコニコ と先生 大丈夫だよ。 また乗れるよ という。2週間目。芝山団地のゴミ捨て場に倒れていたから運んでくれと警察から電話があった。 修理屋に電話した。 またですかあ と呆れた声が返ってきた。
 そのままにしておくと怒られますよ。 どうせもう乗れないだろうが 持ってくるだけは持ってこなきゃと、 習志野まで来てくれた。 ところが 芝山団地 というところが 全然わからない。 近くに交番があるというので電話した。 教わった通りの道順を走ったら 突き当たりで目の前が校門である。気の短い 修理屋は警官のくせに道の教え方がわからない。 人に聞かれた時 何を教えているんだろうと 怒りながら ようやく 狭い団地の奥のゴミ捨て場を探し当てた。

「 ずいぶん遠くへ来たもんですね」

 あたりは真っ暗の田んぼである。 誰一人 通らない。狸や 狐が肩を叩きそうなところである。 修理屋はごみ溜めに半分埋まっている 単車を 力任せに起こしながら、

「先生が道を知らないだけじゃないですかっ。 ここから先生の家まで 5キロしかないんですよ」

 怒鳴られた。 2人がかりで軽トラックに斜めに渡した板の上を、曲がった ハンドルのまま ようやく 押し上げた。 修理屋 は、

「これはもう スクラップ だね 」

軽トラックの車体に縄でゆわえつけながら ため息をついた。 単車がないと学校へ行く気が半減する。毎朝 行こうか行くまいかとハムレットみたいな顔で家を出て 1週間。 ようやく 拾ったボロ単車を修理屋が持ってきてくれた。

「手はかかりましたがね。走りますよ。 ただ もう探すのだけはごめんですよ」

 修理屋は朝早く 眠そうな顔で 空になった軽トラックに乗って帰って行った。わざわざ家へ来て、遊びたいだけ遊んで庭の草むしりまで手伝って、それでも名残惜しそうに帰って行った。 M の後ろ姿が目の前に 浮かんだ。
 あちこちへこんでエンジン音のやけに高い単車を学校の自転車置き場に蔵った。 久しぶりである。 受け持っていた 6 年生たちが 取られた単車の2度 帰ってきた お祝いだと誕生日に単車のハンドルに立てる旗を作ってきた。白の布地に黒マジックでドクロを描いてある。 下に、骨がぶつちがいになっている。 先生もとうとう暴老族になったねと、どこかで M の笑い声が聞こえた。 その日の帰り。
  サイドミラーにゆわえつけた 旗を押つ立てたまま大通りの交番を走り過ぎようとすると、いきなり、前方に紅白の棒を突き出された。 その旗は何だという。子供たちが誕生日に作ってくれたのだと言うと 赤いヘルメットをジロジロ見ながら免許証を見せてくださいという。M の茶褐色のまだ 擦り切れていない 免許証入れを開いた 巡査は途端に 昭和10年 と叫ぶ。 しばらく見入っていたが やがて顔を上げた。

「 60近くなって 旗を立てて走るのもいいが運転には気をつけてくださいよ」

 息子みたいな 巡査である。 単車に乗りながら ご苦労様と言ったら挙手の礼をした。 旗は3日で持っていかれた。子供たちはまた作ると言ったが それだけはやめてくれと頼んだ。別に 恥ずかしくはないが交番の前を通るたび 呼び止められて 生年月日を調べられるのではたまらない。2週間ほど経った 雨の日 。学校の帰り 環状7号線を走っていたら 架橋の下り坂 へ差し掛かった。 通い慣れた道である。 前に車が走っていなかったので、アクセルをニュートラルにしてブレーキを踏んだ。 途端にズドンと単車ごと 跳ね上がるような勢いで転がった。 修理屋を呼んだ。 一緒に仕事をしている弟と珍しく軽トラックに乗ってきた。

「 20年 走った道路で転がるようじゃ しょうがねえな 」

修理屋は手伝って 軽トラックに単車を押し上げている弟に苦笑いした。 メガネをかけた弟は心配そうに 、ゴア、テックスを着込んで泥だるまのように突っ立っている私を見ながら、

「体の方は大丈夫ですか」

 途端に修理屋が手を振った。

「ダメダメ。この先生はそんなことを聞いたって無駄だよ。 単車は死んでも自分は死んだことないんだから」

バスで家へ帰り ズボンを脱いだ。大股と言わず膝と言わず ふくらはぎと言わず すりむけている上に紫と青に変色している。天然色の刺青である。
 修理屋から電話があった。 片マフラーが焼けて出力が出ない。 先生、いよいよ寿命です。 これから 年相応に 90cc のバイクに乗りなさい。もう手配しましたからね。 それが嫌なら 車の運転免許を取りなさいと言われた。 翌日からおじさん バイクに乗って 教習所へ通った。 退職した年である。 毎日のように通った。 2ヶ月足らずで合格した。 60歳以上で免許を取った人は この教習所ではあなたが5人目ですと言われた。
 修理屋から3000キロしか乗っていない親類から預かっているという スターレットを20万円足らずで売ってもらった。 いささか 黄ばんだ クリーム色の小さな車に乗り込んだ。 目の前にハンドルと左手にアルファベットの書かれた手で操作するクラッチ とがついているだけである。単車でさえ クラッチがある。 アクセルとの連動をうまくやらないとエンストする。それに比べたらオートマチックハンドルなんておもちゃみたいなものだ。キーを差し込んでエンジンをかけ アクセルを踏もうとした。 遠くから見ていた 修理屋が飛んできた。

「先生。 クラッチがバックへ入ってますよ。 それで アクセルを踏んだら車は後ろへ走っていきますよ 」

そこまでは気がつかなかった。 修理屋は呆れた顔でものも言わず 私を眺めた。

「 先生。それで免許取ったんですか。そんな調子で乗られたら先生の走るところ道路は全部 渋滞です。 危なくてとても乗れません。当分 うちへ通って練習してください。 それまで免許証を預かっておきます。 せっかくバイクと 調子の似ている スターレットを用意したのに 人様の大型 なんかに乗られたんじゃとても責任が持てません」

 ついに無免許に逆戻りした。
帰り道 おじさん バイクでとぼとぼ帰ってくると後ろの荷台から、

「先生は俺と一緒に運転したことがなかったからな」

 悲しそうな M の声が風に乗って聞こえてきた。 学校で 知恵遅れの 子の面倒を見ながら帰りに修理屋へ行った。 隣に乗ってもらって 江戸川 中を叱られながら走り回った。 ひと月経ったら、

「先生。 どうやら 半人前になりましたね。 もう近くなら一人で乗っても大丈夫でしょう。 いってらっしゃい。 努力に勝る 効き目なしって、先生 毎日子供に言っているんでしょう。この間 聞きましたよ」

 今まで用事がないのに乗り物に乗ったことがない。 目的地を決めないから 迷ってばかりいた。しかしこの 実地 練習のおかげでようやく 自信がついてきた。

 考えてみると 本当に免許を取ったのは 教習所ではない。 親子 2代に渡って40年間 面倒を見てくれたこの修理屋である。 しかし高い駐車代を払いながら どうも 車に乗り気になれない。 単車だと後ろに M が乗っている気がするが車の中はがらんどう である。乗ると緊張感と孤独とがいっぺんに押し寄せてくる。 とうとう 乗らなくなってしまった。 今は娘が免許を取った。 都心からはるか 離れた はるかのマンションの駐車場に車を放り込んで 暇さえあれば乗り回している。
 M とは 長い付き合いだった 。京葉道路の真ん中で何度 ぶっ倒れたかわからない単車に、命を落とさなかったのは一緒に乗っていたとしか思えない。 とうとう 70歳になった。 修理屋がわざわざ 用意して持ってきてくれた、おじさん バイクに乗って買い物に行かされている。 老人クラブ、コーラスのピアノを弾きながらふと 今一度乗ってみたいと思うのは40年にわたって 乗り潰してきた どの単車でもない。ハーレーダビッドソン でもない。丸坊主だった M のさっそうと運転する ホンダ、ドリーム250cc の後部座席で ある。

(了)

 

 

 

 女性のための健康麻雀

 白桜会に入会する動機に、「麻雀をやりたい、習いたい」という女性が多かったようです。今、高齢者に健康マージャンが流行っています。わが白桜会も女性の方が12人でポン、チー、ロン、リーチと嬉しそうに麻雀に熱中しています。週に一回2時間で、あっという間に時が過ぎていきます。
 85歳で初めて麻雀をやりたいと入部した女性がいます。余り教えていないのに牌を並べ、ニコニコ(七対子)など平気にあがります。脳梗塞のリハビリにいいとやっている人もいます。猛暑のなかで熱中症には気を付けてください。

 (マージャン熱中症になるカモ)

(マージャン熱中症の方の俳句)

夏立つや測量の声風に乗り

芽起しの雨に仄かな匂ひあり

江戸前深川めし屋春灯

夏つばめ 庇 の低き向島

すっきりと立夏の真水喉通る

 

単車人生 連載5

       著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)

(八)

 夏休みが来た。受け持った 5年生の子たちを連れて、日光林間学校へ行った。林間学校では東照宮へ行かない。 6年生の移動教室で見学する。宿舎が近いので子供たちの遊んでるまに、宿舎のバイクを借りて東照宮へ行った。お守り札 を 3枚買った。1枚は Mに渡すのである。後の二枚は、管理人(奥方)と赤ん坊のとである。

 東京へ戻ってきて、すぐ、Mの家へ届けようとした。プール当番が重なっていかれない。やっと終わって電話した。Mのおふくろが出た。後、半年で卒業になる。たまには遠出しようと Mの隣に住んでいる従兄弟と友人二人、合計4人で、茨城の海へ泳ぎに行ったという。明日は帰って来るそうだ。二人とも旅行帰りである。Mのことだから、また、とぼけた話しをして笑わせたり、びっくりさせる気だろう。今日は久しぶり、釣りに行って来ようと、バイクに道具をのせて、多摩川へいった。上野毛と等々力との間を流れるあたりに、川の蛇行しているところがある。出水の用心のためか、杭で囲った、遊水池がある。ヘラブナが釣れる。平日だから誰もいない。魚は次から次へと釣れてくる。いつもこんなことはない。怖いくらいだ。

 昔、おやじから聞かされた。置いてけぼりの話しを思い出した。江戸時代、江戸の本所に堀があった。魚はよく釣れるが夕刻帰るとき、魚籠を持ち上げて歩き出そうとすると、堀の中からおいてけ、おいてけと、しきりに声がする。ぐずぐずしていると、足を引っ張られるので、みな魚籠を放り出して逃げたというのである。追い剥ぎは狸だったというが、狸が、下水や掘割の元締めみたいな本所あたりに住んでいたか疑わしい。
もとより、多摩川べりに住むはずがない。
 しかし風が止んで、秋に近い夕陽がいやに赤く、なんとなく不気味である。日の暮れないうちに、魚を逃がして帰ってきた。
 その夜のことである。明け方、3時半ごろに目を覚ました。8月27日だったから、おもては、まだ真っ暗である。暑いから竹の桟を並べた、広い窓を開け放し、蚊帳を釣って寝ていた。 珍しくヒヤリとした風が北の窓から入ってきた。その風が蚊帳へ突き当たると、人が蚊帳を避けるように揺れながら近づいてくる。枕元へ来ると止まった。誰か蚊帳の外の畳へ、ひっそり座っている様子である。人影は見えない。管理人が具合を悪くしたのかと、布団を見ると食用ガエルのようないびきをかいている。子供は川の字にそばに眠っている。目を開いてじっとしていると、枕元の蚊帳がふわりと揺れた。もと来た道を戻って窓から出て行った。薄暗い部屋である。怪しげな雰囲気だなと思ったが、朝方の涼しさに眠ってしまった。

(九)

 朝になった。その日、高田馬場で組合の教研集会が開かれた。会場へ行った。グループを作って話し合っていると、委員長が家から連絡の電話が来ていると言った。 電話口へ出た。 M の家からすぐ電話をかけてくれと知らせがあったという。会場から電話したが誰も出てこない。3度目にMの母親の声が聞こえた。千葉訛りの低い声である。
 今朝早く、従兄弟の運転する車に4人で帰ってくる途中、 ダンプに衝突して重症だという。会場からカバンをさげたまま M の家へ飛んだ。
 行ってみると祭壇が作られている。棺の上に花束がいっぱい積まれたままになっている。六畳ほどの座敷に、風呂敷包みやら紙袋やら、足の踏み場のないほど散らばっている。以前Mを教えた頃、頼まれてこっちは真面目に教えるつもりで、向こうの家まで行ったのに、机の下に隠れたきりで出てこなかったM の妹が、だいぶ大きくなっていた。様子を尋ねたが泣くばかりである。
 昼過ぎ、プレス工場を経営していた長兄が戻ってきた。私の来ていることを知ると飛んできて抱きついた。Mが死んじゃったと泣く。そんなはずはない。3日ほど前、日光東照宮へ宿舎から出かけて、M のお守り札を貰ってきた。今日届けようと思ってきたのに、死ぬわけがない。嘘を言って脅そうとしてもダメだと言った。長兄は座っている私の膝に抱きついて、ひとしきり泣いた。
 今朝3時半頃、茨城県、青柳街道を従兄弟の運転で走っていた。 前を走る観光バスを追い抜こうと、緩やかなカーブを対向車線へ出た途端、疾走してきたダンプカーの下へ突っ込んだ。ボンネットが吹っ飛んだ。外へ飛び出した従兄弟と2人は、相手のバンパーに当たって即死したという。連れの友人は全身打撲で重態だそうだ。
 横にちょこんと座っていた親戚らしいおばさんが、やっぱり従兄弟同士で連れてったんだよねと、小さい声で言った。糸こんにゃくじゃあるまいし、よくもつるんで連れていったなと思ったが、どう考えても事実とは思えない。今にも祭壇の影からバアと顔をのぞかせて、先生少しは驚いたろう。ずっと来てくれなかったから、今日ぐらい、たまげさせてやろうと思っていたんだと、例の笑い声を見せるだろうくらいにしか思っていない。夕方まで何も食べず座っていた。そのうち、多勢の人が集まってきた。誰かが線香をくべた。煙が薄い初秋の黄昏を上っていく。映画を見ているようだ。お通夜を泊まってくれと言われた。
 冗談じゃない。M がもう帰ってこないのなら私を返してくださいと立ち上がった。 長兄は歯を食いしばって声を上げて泣いた。
 翌日。告別式へ行った。棺の窓を開けて、最後の別れを言う時が来た。
「先生見てやってくださいよ。あんなに仲が良かったんだから、きっと、喜びますよ。 一番喜ぶかもしれない」
 M のおふくろが、泣き疲れた声で言った。
「いや。見たくありません」
私は言った。見て本人だったら事実ということになる。事実でないと信じる者が見る必要はない。
「俺、泣いたり、恨んだりするのって嫌いなんだ」
 M の言葉が蘇ってきた。 火葬場へ行った。骨を拾った。 帰ってきてお坊さんがお経をあげるのを聞いた。突然、昨日の明け方、北側の窓から入ってきて、スルスルと蚊帳を伝い枕元に小じんまりと座り込んだ、幻のような風を思い出した。 あれが M との最後の別れだったのかと思った時、ようやく M はもうこの世にいないのだと分かった。  供養のお経を半分聞いた。思い出すのは二度と厭である。 ここへは来たくないと、長兄に行って帰ってきた。それから何度も、卒塔婆を立てに行ったけれども。 家へ M が来た時、 聞かせたレコードを蔵った。 東照宮のお守りを、免許証の奥深く隠した。 M はいなくなって、お守りだけが残った。

(十)

 9月になり、10月になった。 安保反対のデモで、連日、国会議事堂の周りへ行かされた。すごい人出と熱気である。 日本愛国党と、白ペンキで書かれたトラックの上から、マイクで叫んでいた白髪の人物に、旗竿で叩かれた。国会の審議が終わるまで、デモ隊は 議事堂の周りから離れるなと言われた。今夜は徹夜である。みんな張り切っている。 夕食を食べず、直接学校から集まってきた連中である。 夕方、7時を過ぎた。腹が減って動けないと言い出すものが現れた。なんとかしなければならない。 幸いカブに乗ってきている。
 書記長から金を貰った。 カブを引っ張って、議事堂からお堀端へ出る通路まで下りてきた。 そこから先は、機動隊の山である。白いヘルメットと腰に巻いたベルトが、ナチスの映画のように見える。バイクのハンドルを握ったまま、
「帰りたいから通してください」
白い杖を地に立てて握った、隊長らしいのがしばらく眺めた。
「帰るそうだ。通してやれ」
隊員が道を開けてくれた。 急いでカブに乗り、車の混み合う壕端通りへ出た。相変わらずの車の行列と、議事堂を取り巻くデモ隊。一体、日本はどうなっているんだろう。通りを食料を売っていそうな店を探した。 幸い、裏通りに入ったところにパン屋があった。 バイクを引いてよろよろ 入って行った。

「お願いがあります。 実は デモ で昼から 議事堂を取り巻いているのです。 お腹が減って死にそうです。お腹に赤ちゃんのいる先生がいます。 お店にあるだけのパンをこのカブに積めるだけ下さい。 パン箱は必ず返しに行きます」
  勤め先の住所を書いた。 平たいパン 箱に、アンパン、メロンパン、クリームパン、 ぶどうパン ありったけ菓子パンを詰めた。4 箱積んでゴム 縄で縛った。 その頃はバイクにヘルメットかぶらなくていい時代である。 パン屋 から 白い帽子を借りてかぶった。 お金を払ってさっきの機動隊のところへ走った。 帽子をかぶったまま、
「 そこのパン屋に勤めている店員です。 議事堂の周りに パンを運ぶよう 電話があって主人が 届けてこいと言いました。どうか、 お願いします」
 そばにいた隊員が言下に、
「いかん、いかん。デモ隊のやつらは自分で勝手に腹を減らしているんだ。 法律を守らないような者に情けは無用だ。 帰りなさい」
 ここで引き下がってはパンが全部無駄になる。 Mよ。 何とかしてくれ。
「実はつい最近上京してそこのお店へ勤めました。 やっと仕事に慣れて配達を頼まれるようになりました。 持って帰ると言ってもこれを店で売るわけに行きません。それに仕事をしくじったらやめるように言われています。このまま 郷里へ帰るわけにも行きません。 何とかお願いできませんでしょうか」
相手が一足出ようとしたところへ さっきの白い杖をついた 隊長がやってきた。
「 なに、パンを持ってきた?新米か。 主人の言い付けで、わけがわからず持ってきたんだろう。 商売じゃ 仕方ないまる 通してやれ」
持った棒を 隊員たちに指した。開いた間を恐る恐る バイクを曳いて行った。 隊長の前を通り過ぎる時 気がつかないかと 冷や汗が出た。 服装は 白シャツに夏の綿パンである。 さっきと同じである。しかし 隊長はわざとゆっくり 運ぶにせパン屋に、
「早く行きなさい。ここは出入りで混む。 警戒を厳しくせにゃならんところだ」
  大急ぎで カブにまたがり 裏手の坂を上ったデモ隊の基地へ着いた。積まれたパン箱を見て、組合員たちが万歳 と叫んだ。近くの江東、荒川といった区の組合員たちが実に羨ましそうな顔で眺める。万斛の涙をのむという目である。 寝覚めが悪い。委員長に、「もう1回買ってきましょうか。 今度は別の入り口から入ります」
 委員長は首を振った。
「 だめだ。 入り口は1つしかない。それに 他支部の面倒 まで見る必要はない。 早く パン箱を返してきなさい。そのまま家へ帰りたまえ。 夜になったら 交通規制を施かれるひかれるから いつになったら帰れるかわからないよ」
空のパン箱を返しに行く時、また機動隊の中へ入った。珍しいのか、たくさんの 隊員たちが集まってきた。
「届けられてよかったな」
声をかける 隊員がいる。 地方から出てきて、さんざん苦労した末、機動隊員になったのだろう。 同病相憐れむか。
 新橋駅近くまで来た時、右だけに曲がれる三叉路を通った。 人だかりに殺気が満ちていた。 学生らしい年齢と服装の集団が髪を振り乱し ヘルメット姿の機動隊とにらみ合っている。 学生たちは メガホンや 両手を当て 口々に、
「政府の犬 」
「貴様らそれでも日本人か」
 叫んでいる。 石を投げる者がいる。 挑発に乗らず林のように突っ立てた、銀色の楯を青白く照明車に照らされて 一言も発しない。 機動隊の群れはロボットの集団のように不気味だった。
この対立する集団には 同郷 だったり 大学が同じだったり、中には以前、友人だった相手がいたりするのかも知れない。 なぜこんなことをするか。 話してわからなければ暴力というのは 226事件の首謀者、暴力団のチンピラと同じではないか。 大学まで出てなんと情けない奴らだ。
 鲁迅の「 非攻 」という短編は、争いを否定する墨子の話である。 ある日彼のところへ孟子の弟子 公孫高がやってくる。
「先生は 不戦を主張 なさるのですか」
「 いかにも 」
「犬や豚でも戦います まして人間は」
言いかけるのに、
「やれやれ。お前たちは口では 堯舜を称えながら行いは犬や豚を見習うのか」
冷やかに言い放つところがある。 人間、何千年経っても変わらない。
 翌日 学校で子供達に言った。
「君たちはよく喧嘩をするな。喧嘩は仲がいいからする。したかったら、一対一で、気のすむまでやれ。俺がレフリーをやってやる。ただ怪我させるまでやるなよ。 そして、たとえ どんな子でも嫌ったり、憎んだり 仲間はずれにするんじゃない。人間 ひとりぼっちくらい辛いことはないんだ。自分がそういう目にあった時のことを考えてくれ」
  子供たちは しばらく 首をかしげた。やがて、はあい と言った。 彼らはすぐ忘れる。 だが 一度事件が起きると、時に思い出す。 いつまでその気持ちを持ち続けられるか。 憎む、は、愛するがゆえにして、冷ややかなるは、愛なきなればなり。
 M がそばにいたら 先生、 人間て、よく喧嘩する暇があるね、と笑ったに違いない。

(つづく)

 

 

ボッチャクラブを作ろう…

 7月も下旬になって、猛暑つづきです。グラウンドゴルフも折角、業者が草刈りをやってくれたが、暑くてタマリマセン。十余一公園と桜台小の練習は中止となりました。止めるのが正解でしょう。熱中症が出たらえらいことです。

(7/18草刈り、7/20は練習出来ました)

(暑いので参加者6名、空蝉、鬼百合の季節です)

ボッチャ大会に大勢参加がありました。新たにボッチャ部を作ろうと、役員が計画しています。卓球部の練習する毎週、金曜日の14時から16時までの2時間です。10名以上部員が集まらないと、立ち上げられません。募集して何人が参加するでしょうか?

(実際にボッチャをやってみました。高高齢者にはいいかも?)

 

 フレイルにならないよう出かけましょう、軽い運動をしましょう!

単車人生 連載4

(六) 著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)

 夏休みが終わった。職場の分会長が急に、教員組合の執行委員になってくれと言ってきた。今まで地区で出ていた人が、病欠になった。代わりがいないから頼むという。赤ん坊が生まれそうだというのに、無茶な話だと思ったが、別にこっちが産むわけではない。帰って話したら、ふだん、飲み仲間を連れて午前様で帰って来られるより、多勢のためになる仕事をした方がましだ。別に 毎日の帰宅なんか、今更、当てにしてないと言われた。仕方なく組合の執行委員になった。

 支部というところへ行ってみた。セイタカアワダチソウに囲まれたプレハブ小屋に、目つきの鋭い男がいた。君は誰だという。今度、病欠になった地区の委員の代わりを頼まれたので来ました。と、名を言うと急に人懐っこい顔になった。俺は執行委員長だ。君はバイクか車に乗れるかと聞く。50cc なら乗れますが、実家に置いてありますと答えると場所を聞かれた。それじゃあ、無理だなあ。執行委員は足がないと動けないから、誰かの車に乗ってもらって活動してくれよという。Mとドリームで走った 新橋駅前の演舞場や、両国ホテルを飾った、大きなネオンサインを思い出した。道は分かっている。ドリームに走れて、カブに走れないことはないだろう。

 翌日。カブにまたがり、家を出た。洗足池まで30分かかった。朝6時に出て学校へ着いたのが8時だった。その日は疲れて授業中、居眠りをした。午後、組合へ行った。委員長が中古を買ったのかと尋ねた。家から乗ってきたと言ったら、じっと顔を見つめた。怪我をしないでくれ。世田谷から江戸川じゃ、東京横断だ。50cc のカブでそういうことを考えるやつは見たことがない。頼むから用心して乗ってくれ。何なら支部のカブを貸すから、この近くだけ乗ってくれてもいいんだぜ、という。一度始めようと思ったことを、他人の忠告くらいでやめるのは男の恥だ。Mが俺を乗せて走った道を、俺が通れないわけがない。自転車のビニールカッパを買って、晴雨に関わらず通った。 雨の日は辛い。その頃、シールドのついたヘルメットはなかったから、雨の滴が目に入ると前が見えない。ビニールカッパは、濡れないものかと思ったら大違いで、全身から出る汗が外へ出られず、内側が水をかぶったようになる。雨上がりの夕方、その頃まだ走っていた亀戸の路面電車のレールにタイヤが乗ったと思ったら、あっという間に転がった。後続車がいなかったから、ズボンの膝に穴を開けただけで済んだ。今なら腹に穴が開いていたに違いない。

 いくらも経たないある日。工事現場の泥道を泳ぎながら走っていると、いきなりダンプが後ろから追い越して、工場現場の空き地へ左折した。カブは軽いから、すぐひっくり返る。ひっくり返ったので助かった。倒れたハンドルの目の前スレスレを、大きな後輪が、汁粉みたいな泥を跳ね飛ばしながら、ゆっくり通って行った時にはたまげた。 泥団子のようになって家へ着いた。Mに電話した。だからダメだと言ったじゃないか。車の免許を取った方がいいよ。先生くらいのおじさんになって、単車に乗る人なんか、会社の社長さんくらいだぜ、という。会社の社長は、そんなに貧しいのか と尋ねると、先生は世の中のことは何も知らないんだな。社長は晴れた休みの日に、何人かでチームを作ってハーレーに乗って、ツーリングに行くんだ。趣味で乗るんだよと言う。ハーレって、彗星の名前かと聞くと、ハーレーダヴィットソンというアメリカの単車で、日本の4輪車より高いのだそうだ。それはいいことを聞いた。早速、都から金を借りて、それを買って乗るぞと言うと、先生みたいにTシャツにトレパンに運動靴でハーレーに乗ったら、交番の前を通れないという。どうしてだと聞くと、まずその車をどこから持ってきた。証明書を見せろと必ず言われる。調べられる。1時間は放してもらえないという。第一、先生は自動二輪の免許を取ったのかと、笑われた。なるほど。50ccの免許で、最低排気量 750ccだというハーレーに乗れるわけがない。渋谷へ行って話すと、委員長は大笑いだ。執行委員がハーレーに乗るようじゃ、世の中はおしまいだ。君がハーレーに乗るんじゃ、俺はベンツに乗らなきゃならない。それくらいなら、車の免許を取れ。組合で金を貸してやる。給料から天引きで返すから大したことはない。免許を取れたら、組合の車を使わせるという。車に乗れるなんて、一生の夢だと思ったが、免許を取るためには 教習所で練習したり、試験を受けなきゃならないと聞いて、うんざりした。世の中に試験くらい、くだらないものはない。多勢の人間を一つの能力で優劣を決めるほど愚かなことはない。しかし、新小岩にあったS教習所は、面倒見がいいから、すぐ取れる。免許は若いうちに取らないと損だと言われて、とにかく行った。
 費用は一括で前払いだった。組合の金を借りたから、今すぐ腹が痛むわけではない。一生懸命練習して、予定時間数より少なく卒業すれば、残りを返してくれるという。よし、単車なら東京横断の腕がある。なんの車くらい、3日で取ってやるぞと思ったが、どうも意欲がわかない。第一、組合の仕事をするために、車の免許を取るというのが気に喰わない。組合の仕事が終われば、たちまち車をぶん投げて、単車に取りつくことが目に見えている。同居人に言わせると、車は、税金、保険が高い上に、車の置き場がなければならないという。第一車を買う金がない。しかし教習料は組合が申し込んで、すでに払い込んであるという。行かないわけにはいかない。教習場のスタート地点で、初めてハンドルを握った。何だか急に金持ちになった気がする。2、3回通った。ある日、場内を回っているうち、交差点の信号が赤に変わった。2台の車が間を開けて停まっている。間に隙間がある。これはしめたと車を突っ込んで停めた。単車なら当然の権利である。ところが、同乗の教習員がドアを開けて降りなさいという。車が接近して開けられない。出られませんと答えた。教習員は、こういうところへ、車を突っ込むような人は免許を取らない方がいい。必ず事故を起こすと言った。言う通りだ。天災事変にあった時、ドアが開かなかったらおしまいだ。やはり、車に乗るのは、分不相応だと諦めた。夏目漱石じゃあるまいし則天去私なんて、えらい考えはこれっぽっちも持たないが、この時はやっぱり、天が車になんか乗るな、単車にしとけと言っているように聞こえた。それっきり、行かなかった。
 教習所ではずいぶん心配してくれて、今なら空いているから1ヶ月で取れる。取りかけたんだからどうですか。早く卒業した方がいいですよ と、しきりに組合に電話してくる。しかし、なんだかんだ組合の仕事をしているうちに二学期になった。学校が始まると、悪友たちと3日にあげず飲む。免許は遠い彼方へかすんだ。6ヶ月が過ぎた。残りの金が返されてきた。免許を取れなかったお祝いに、支部の連中と飲んだ。君のような人間には、やはり単車が似合っている。車は人をはねる心配がある。とくに、君のようなせっかちな人間ほど危ない。君がはねたら困る人がいっぱいいると思うが、君が単車ごと跳ねられたところで、心配する人は誰もいないに違いない。安心した方がいい。取れなくてかえってよかったという。その通りだ。車に単車ごと跳ねられて、路面に放り出され、 ぴくりとも動かない血だらけの姿を見たことがある。見も知らない人間をあんなふうにするくらいなら、自分が血だらけになる方が、まだ、ましである

(七)

  その年、教職員の勤務評定を実施すると脅かされたり、40年安保の前年だったりして、毎日朝から区内の学校へストライキ参加のためのオルグ(激励)に行かされた。午前中は低学年の授業を持つ。午後から支部へ出かける。区内のどこそこへ書類を届けてこい。どこそこの中学校は、参加絶対反対と言ってきてるから説得してこいと、ずいぶん使われた。よほど暇に見えるらしい。次第に夜遅くまで仕事が続くようになった。家へ帰るのが面倒になってきた。支部の埃だらけの板張りの床へ、毛布を敷いて寝た。
 翌日、実家から学校へ電話があった。昨夜女の子が生まれたという。委員長に話して、やっとカブで帰ってくると誰もいない。遊びから帰ってきたまだ中学校だった弟に聞くと、赤ん坊を見に産婆のところへ行っているという。お袋の10人の子を一人残らず取り上げてくれた産婆の家へ行った。みんなが一室に集まって、敷かれた布団を覗き込んでいる。親父がいる。自分の子が生まれた時は恥ずかしがって、一度も来なかった親父が、メガネをかけて、泣くだけが商売の赤い着物を着せられた、孫の顔をのぞいている。親父は私の顔を見るといい時に来た。名前はまだないと、吾輩は猫であるみたいなことを言う。生年月日は今日にしておく。お前のいないところで生まれたんじゃ、可哀想だからなという。
 名前をどうするんだと、せっかちに聞く。自分の子の名前は、戦時中生まれたのには、健二、忠雄、勇三など適当につけてある。もう一人生まれたら、無双とつけるつもりだったそうだ。民主主義の世になって、兄弟の名を合わせたら、忠勇無双というのでは、子供はたまらないだろうが、親父は平然たるものだ。男たるもの、たとえ戦さがなくとも、平生、忠勇無双でなければいかんという持論である。しかし今度は女の子だ。薙子などとつけられてはたまらない。せっかく、今日、生まれたことになったんだから、今日子でいいでしょうと言うと、そうだ。それは正直でいい。正直になれそうな顔をしていると上機嫌である。管理人(女房)が蒲団の中から、今日子と三文字書くのは大変だから、京子の方がいい。東京で生まれたんだから、京子でいいわよという。自分で産んだ子だ。いくら種子をまいたって、畑がなければ育たない。畑の言うことを聞いてりゃ、種子に間違いはないだろう。当時 S大に通っていた4番目の弟が、名前は1字でも少ない方がテストの時、得だぜと言った。名前が一字減ったくらいで、得点に影響する頭の持ち主かと思ったが、どんな名前でも、出生届の手数料は同じだというから、短い方にした。
 Mに電話した。顔を見に行きたいという。次の日曜。ドリームで姿を現した。見るなり小さいなと言う。これからだんだん大きくなるだろう。あと1、2年して手がかからなくなったら、そっちを探して引っ越す。一緒に釣りに行こうなといった。Mは、目を潤ませた。先生がいないと、釣りに行ってもつまらない。早く引っ越してくれと、おやじ、おふくろのいる前で言った。
「これ誕生日のプレゼント」
Mは、ひもを縛って、肩へかついできた竿を恥ずかしそうに寄越した。自分さえ思い出さない誕生日に、プレゼントを持ってくるやつがいる。帰ったあと二人は、あんなやさしい子は珍しい。言うことすること親切だ。いい友達を持って幸せだといった。管理人が次いでに、あなたの代わりに、この子の父親になればよかったのにねと言った。Mは、来年三月卒業で、高校を出たら、家業のプレス屋を手伝うそうである。もしそうなったらふだんの日、こっちが休暇を取って、二人でどこへでも行かれる。それまでに、かならず、自動二輪の免許を取るぞと誓った。ドリーム号は素晴らしいが、いつまでも、荷物を担いで、リアシートに乗せられているのは、かなしい。

(つづき)

第2回ボッチャ大会&GG七夕大会

 ボッチャは6/30桜台センターで開催、一般の方6名参加。3人一組で10組がチーム戦を楽しみました。4エンド終わって得点4が7組出たあ~。ジャンケンでベスト4を選び、決勝は2対2となりジャンケンで楽トレの高齢者組が優勝しました。おめでとうございます!

この大会で2名ほど入会希望者が出ました。😊

 

GG七夕大会は桜台小の校庭で7/1開催。雨が降ってきて、3ラウンドで終了しました。参加も雨模様で少なめ、10名の参加でした。

 

単車人生 連載3

(四)
      著: 遠藤俊夫(白桜会/囲碁将棋部、卓球部)
 16歳になった途端、たった1回の実地試験で自動2輪の免許を取ったM は、相変わらず墨を塗ったような暗闇を荷台に釣具を背負った私を乗せて、水戸街道を疾駆するようになった。早朝からの水元公園の釣りの帰り、私の勤める学校まで飛ばし、降ろすと通っている葛飾の高校へ戻るのである。M の単車はホンダのドリーム250cc だった。片マフラーで、当時最大級の車体を持ったこの車は、独特のエンジン音と、素晴らしい馬力とで若者たちの憧れの的だった。Mはこの単車をよほど気に入ったらしかった。17歳になって車の免許を持ったが滅多に乗らなかった。どこへ行くにも私を後部座席へ乗せて、街中と言わず、釣り場近くの草原と言わず飛び回った。家庭教師に雇われていた頃、宿題一つしなかったMが高校へ入った途端、鮫津の試験場で、法令、実地に一発合格。あっという間に車の免許を取ってきた。いい歳をして毎日、後部座席に乗せられているのは情けない。せめて50ccの免許を取ろうと出かけて行った。当時、この免許は、講習さえ受ければもらえた。 講習を受けに来た大勢の女性の視線を浴びながら、教官の話を聞いた。彼女たちの顔に見とれて何も覚えなかった。

 やっと免許を貰えたのが嬉しくて、友人に紹介されたNモーターという 修理工場へ行った。薄暗いオイルの匂いの漂う工場の中に、50cc のホンダカブと、ガソリンタンクをつけた黒塗りの中古車とが並んでいた。値段を聞くとあまり違わない。誰だって尻の下にガソリンタンクをつけた風防付きのバイクより、社名の光るタンクにクラッチレバーの光る黒塗りバイクを欲しいに決まっている。こっちを売ってくれとタンク付きを指した。当時、バイク屋から腕一本で修理工場を経営するまでになった主人は老眼鏡を光らせながら、バイク歴を聞いた。すでに70歳近かったこの主人は2、3日前、講習を受けてきたばかりだと聞くと、頑としてタンク付きを乗らなかった。カブに乗れという。どうしてタンク付きに乗ってはいけないのか、恐る恐る尋ねた。主人はさっさと油布でカブの埃を払いながら、こんなクラッチ付きで80㎞/hも出る単車に乗ったら、たちまち事故を起こす。こういう単車はまずカブに乗って1年も修業してから乗るものだという。 「私の取った免許ではこの単車に乗れませんか」
「いや、乗れますよ。ただ、腕が乗れないと言っているだけだよ」
「それなら、よく練習して事故を起こさないよう、上手になったら走ります。それでもだめですか」
「だめだめ、どこで練習するの」
「学校の校庭とか。住んでいるアパートの近くに、空き地がたくさんあります」
主人は情けないと言う顔で、カブのエンジンオイルを取り替え始めた。
「公共の場所、他人の土地で車の練習はできない。あんた、教わってこなかったの」
初耳である。講習で言われたに違いない。耳が節穴だったのだ。
「当分、これに乗りなさい。壊れるころになったらクラッチ付きにのせるよ」
とうとうカブに乗せられた。客の希望、注文を一切聞かず、乗りたくない車を押し付ける修理工場がある。あんなところへ二度と行くものかと、帰って管理人(女房)に訴えた。管理人は真面目に、
「それは、あなたの上手下手ではなく、乗り方の見当をつけたからでしょう。今時、そんな親切の人はいないわよ。今度から買う時には、必ずその修理屋さんにしなさいよ」
亭主の方を持たず、客の要求を無視した単車屋を褒める。にくたらしい教員だと思ったが、 とにかく、昨日まで汗みずくで自転車をこいでいた者が、今日から颯爽とエンジン付きのオートバイに乗れるのである。翌朝はやく、大喜びで学校へ乗って行った。給食場脇の自転車置き場へ止めた。すると後ろから、
「あら、八百屋さん。今日は集金日じゃないわよ」
 振り返ると、長靴を履いてエプロンをかけた給食調理場のおばさんである。
「おはようございます。今日からこれに乗ることにしました。よろしくお願いいたします」
 声を聞いた相手は飛び上がった。
「あら先生だったんですかあ。いつも給食用の野菜を運んでくれる八百屋さんが配達の時以外、カブに乗ってくるもんだから。間違えちゃってごめんなさい。でもカブに乗った先生って、素敵だわ、とても先生に見えないわ」
八百屋か、肉屋の集金人に見えたに違いない。みっともないから乗ってきたことを誰にも言わなかったが、こういう噂は電波より早く伝わるらしい。2時間目の休み時間、受け持ちの子たちが続々と集まってきた。
「先生。かっこ悪いよ」
「それ、おじさんバイクって言うんだよ」
「自転車の方が、かっこいいよ」
乗ってる本人まで、どこかのおじさんみたいだと言うのである。どこかのおじさんに違いない。26歳になって、よれよれシャツ、Gパンに運動靴の通勤姿では、たとえカブに乗らなくても、どこかのおじさんである。
「でも、これは自転車みたいにこがなくてもいいんだぞ。それに、 早く走れるんだぞ」
 私は、切り札を出した。一番背の高い男の子が、
「先生。このカブは 30㎞/hしか出せないんだよ。おれの8段変速の自転車は40㎞/hで走るよ」
 私は、絶望した。モーターバイクが、サイクリング車に追い抜かれるところを想像したのである。だが、乗っているうちに、風防のついたバイクが、馬鹿にできない性能を備えているのに気づいた。第一に頑強である。セル、モーターなどというハイカラな装備はないから、バッテリーが上がりかかっても思い切りキックを蹴っ飛ばせば、エンジンがかかる。
第二に軽い。烈風の時は酔っ払ったように足元がおぼつかなくて困るが、毎日吹くわけではない。第三に操作が簡単である。エンジンをかけ右手のアクセルを回しさえすれば自然に走り出す。ブレーキは後輪のフットブレーキより前輪の方がよく効く。自転車に似ている。第四に暖かい。夏は感じないが、真冬の北風を真向かいに走る時、風防のおかげでしびれるほど脚を凍えさすことがない。最大の欠点は遅いことである。アクセルをふかっし放して平らな舗道を飛ばして、60㎞/hが限度である。へら鮒釣りへ行く途中、先導車の後をついて走る、ヘルメットをきらめかせた競輪の選手に、何度か抜かれた。もっとスピードを出せる単車に乗りたい。思いはその一点に凝縮されていった。

(五)

 1年経ったか、経たないかに、管理人(女房)が子供を産むことになった。アパートは夫婦用で、子供を育てることができない。たとえ許されたところで 1日空室へ放り込んでおけばたちまちミイラになる。親がなければ子は育つは嘘である。実家へ身を寄せることになった。生まれたら大学を退職したおやじ、ようやく10人が1桁になって、ほっと一息のおふくろ。大家族を援けて、時におふくろ代わりに家事をしてくれた、未婚の次姉とに、飼育してもらうもりである。引越し荷物をトラックに積み、カブであとつけようとした。Mは、そんな出前持ちのバイクをやめて、俺の単車の後ろへ乗れという。新小岩から世田谷の実家まで道がまるでわからない。カブでトラックの後をつけて迷子になるより、どこでも道を知っているMのリアシートが、どれだけいいかわからない。カブをトラックに積んで、ドリーム250cc の後ろへ乗った。久しぶりの長距離ドライブである。トラックの運転手は 市ヶ谷から渋谷を抜けて行くという。Mは 運送屋のくせに道を知らないなという。新小岩から両国へ走って左へ入ると新橋駅前へ出る。そこを越えて五反田の間を池上へ抜け、長原を通り、目蒲線奥沢駅へ出れば、時間も距離も半分だという。引越しトラックの運転手に、Mの書いた地図を渡し、腹の出た管理人を前部座席へ押し込んだ。Mと2人、両国から新橋、五反田、池上へと抜ける道を先導した。トラックはすぐ見えなくなった。信号が黄色に変わったところを、あっという間に走り抜ける単車を追走できるはずがない。Mと2人、単車で都心を走るのは初めてである。見回しているうち、あっという間に長原へ出た。

 ここに小池という、昔からの釣堀がある。実家へ出かければ必ず竿を担いでくるところである。ちょうど4月で洗足池の周りの桜が、池を桃色に染めていた。
「この池は釣っちゃいけないのかな」
M は、走りながら目をやった。 一面、浮いている花びらの中を漕ぎ回るボート。弁当を広げた家族連れ。赤茶けた池の水には、ヘラ鮒のいそうな気配はない。
「ダメだろうなあ。こんなにボートで揺らされちゃ、ヘラ鮒がいても、ボーッとして釣れないだろうなあ」
1時間少しで実家へ着いた。今と比べて交通量は半分である。渋滞という言葉がなかった。
「やっぱり速いだろう。 先生」
Mは、優しい目を糸のようにした。単車とトラックとが、同じ道を走れば、信号がある限り、単車が早いに決まっている。手持ち無沙汰の2人は庭に置かれた卓球台で球を打ったり、将棋を指したりした。ステレオがあったので、ラベルも見ず、適当なレコードをターンテーブルへ乗せた。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番だった。5分ほどして、Mは王手をかけながら、
「先生。これ陰気くさい音楽だな」
珍しく真面目な顔をした。エルビスプレスリー、ポールアンカ、パットブーン、ニールセダカ。ロックにカントリーソングばかり聞いていたMに、まだラフマニノフの2番は、恨みつらみを並べた、くり言にしか聞こえなかったかも知れない。
「おれ、泣いたり、恨んだりするのって、嫌いなんだ」
私は慌てて、モーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジークに代えた。
「ああ、これ、きれいだな。おれ、音楽の時間に聞いたよ」
M は嬉しそうな顔をした。高校2年生にもなって、なんと子供みたいなやつだろう。曲に合わせて歌っていた M は、レコードが終わると、もう1回かけてくれと言った。1時間過ぎた頃、やっとトラックが着いた。M は 荷卸しを手伝って、せっせと働いた。片付け終えると、じゃあ先生、また来るからレコードを聞かせてくれよ、と言った。せめて夕飯ぐらい喰っていけと言ったら泊まりたくなるから帰る。元気でいなよ。ここから平井の学校まで、カブに乗ったりしちゃだめだよ。自動2輪か、車の免許を早く取りなよと、名残惜しそうに単車に乗った。M がふり返りふり返り、奥沢駅へ行く道を曲がって見えなくなるまで私は手を振った。

 四畳半1杯のこたつやぐらに布団をかぶせて、雀卓を乗せ、待ったの連続で、麻雀をしていた暮らしが、無性に懐かしかった。M は、それから月に一度くらい、豆腐屋の息子を乗せて、相変わらずドリーム号で尋ねてきた。私たちは久しぶり、借りていた奥の座敷で、ジャラジャラ音をさせた。全身 お腹という管理人は産休ですることがない。2人の来るのを無上の楽しみにした。M は、彼女がリーチをかけると、わざと当たりパイを放って喜ばせた。10人の子供にさんざん苦労した、おやじとおふくろは、歳を取ってきて、他人の子や、客の来るのをあまり喜ばなかった。 しかしこの二人はどういうわけか、気に入られた。律儀に挨拶するところもだったろうが、2人とも高校生というのに丸坊主で、はにかみ屋で無口なところが気に入ったらしい。おやじは、自分の学生さえ滅多に家へ寄せ付けなかったが、自分から私達の部屋へ来て、M と将棋を指した。あの子たちは本当にいい子だと、人づき合いの悪いおやじや、せっかちで、財布をどこかへ置き忘れてばかりいるおふくろの言葉を聞くたび、嬉しかった。勝負事ばかり教えていても、礼儀と思いやりは育つものかと思ったからである。  (つづく)